2005年 5月 13日 (金) 

       

■ 〈古文書を旅する〉62 工藤利悦 盛岡、八戸分封の真相

 ■南部両家盛岡八戸と分かること
  南部二十八代山城守重直公は半白に(半分黒髪、半分白髪)及びたまうまで、世継ぎの御子ましまさず。これよりさき、男子おわせしが早世つかまつりたまう。重直公の弟は七戸隼人重信、中里数馬直房と申せしが、いずれも御才覚疎からざる人なりしが、重直公はいかなる御所存あるや、この人この内をも養子にしたまはず。

  その頃堀田加賀守紀正盛(十万石領)の御末子内蔵助(諱勝直、幼名虎之助、十八歳)と申し候を乞い受けさせ世継ぎと定め給ふ。既に桜田亭に迎えなしたまわれ、父子の御契(ちぎ)りものあらんと御土器(はじき)を出したまうところ、不思議やこの土器何の故なきに二つ割れにけり。

  重信公怪敷(あやしく)思し召され候えども、さあらぬ体にて宣(のたまい)ければ、これはめでたき吉相なり、頓(とみ)て嫡孫を儲けただいま迎え取りたる養子と二人なるべく前表なりと祝ひたまいしなり。

  万治二年(一六五九年)己亥四月十九日なり。しかるにこの養君程なく病いに付かせたまいていまだ七日も過ぎず、ついに卒去したまう。(この日万治二己亥年五月九日、行年十八歳)

  その後将軍家綱公へ養子の事願いせけるは、養子願いの事無用たり、遺跡(註)の事は悪しくは御はからいあるまじく、ただ病気の保養いたすべくとありしかば、その後は養君の沙汰もなかりけり。

  しかるところに重直公寛文四年(一六六四年)甲辰九月十二日御年五拾九にて江府(江戸)にて卒去つかまつりたまう。法号有生院(のち即性院)殿三峯宗玄、菩提所聖寿寺、住持黙説が導師、治国三十三年、殉死は塩川八右衞門仲為、十六カ月目に追腹なり、累代各旧臣等、御跡如何あらんと各心を砕きしところに、同三年冬十一月将軍家綱公より重信・直房兄弟、江府へ参上あるべく由奉書をもって南部へ仰せ下され、二人共程なく上着つかまつりたまう。

  十二月六日両人共酒井雅楽頭忠清台命(将軍の命令)の趣きを仰けるは、山城守嗣子なく卒去しぬ、家久しく、その上亡父信濃守利直、東照大神君に忠功これある故、重直遺跡十万石を分け、八万石にて立させたまい、兄重信に下され、相残る二万石は弟直房に下され、新規御取りたてあるところなり。

  二人共に父の跡と思うべからず、将軍家全て御取りたてあるところなり。ありがたく存ずべく旨演説せらる。兄弟謹んで台命を承はらせたまう。重信は謝詞を述べたまう。続いて直房が申させたまいけるは、南部の家代々十万石の高をもって禄を領し来たり候、願くはこれを全て兄重信に下し置かせられ、某はその領の内に付き配分を受け、将軍家への御奉公を何分にも忠勤を奉ずべく由申されたまいしかども、将軍家が御取り立ての御掟の上は強いて辞退ありがたく、直房終いに台命に随い奉る、時の人その精錬を感ずとなり、同廿八日兄弟共に従五位下に叙す、重信は大膳大夫、直房は左衞門佐に任ぜられ、これより南部両家となり栄えたまいけり。

  その後将軍綱吉公の御治世に至て重信は貞実を御感じありて天和三年五月七日営中へ召され、四品にせられ、その上領知広き由を聞き召し及ばせらるとて、八万石の高をもって十万石の高に上ぼさせたまわる。南部両家かれこれ十二万石の高に及べり。誠に繁栄なる事ともなり。
(「祐清私記乾」)

 【解説】これまで重直の遺領十万石は分割されて八万石を次弟重信に、八戸二万石を季弟直房に分封されたのは、重直の悪政と無嗣子で死去したためと、負の面を強調する形で論ぜられてきた。ここではその経過を記述している。はたして正しい史実を伝えているのだろうか。当時における幕府の見解がどのようなものであったか、経過を追って検証する。
 
  まず、相続の方法には大別して「遺跡」と「家督」の二形態があった。重直が死去しのちに重信・直房の兄弟が相続しているが、これを「遺跡」または「跡式」という。

  つまり、先代が没後に相続する方法である。一方の「家督」とは先代が隠居した後を継ぐことである。従って、重直没後の相続形態はごく一般に行われていた形式であり、かつ幕府は「遺跡の事は悪しくは御はからひ有るまじく、只病気の保養致たすべく云々」と称している。つまり「跡継ぎのことは心配しなくていい。とにかく療養に気を付けて元気になりなさい」と言っているのである。

  『秘記』乾によれば、重直が臨終の前日御医者衆によってもたらされた将軍家の上意とあるが、『内史略』は、これに対して「この言葉を聞いた重直は、自分の代で南部家は断絶すると考え、心が荒み悪業を働いた」と書き添えている。

  意図する真意は計りかねる。なお、これより先、寛文元年十月に「御養子之儀に付、江戸より書状到来す、御養子之儀上聞に達せられ候処、仰せ付けらるべくと仰せ出さる旨、御老中様より御使船越伊豫・荒木田十左衞門殿、去月廿九日御上屋敷へ御出、仰せ渡され候に付、御家中へその由申し聞かす由云々」(『雑書』)と諸士に幕府の意向を伝えている。

  幕府の日誌『柳営日次記』寛文四年十二月六日条によれば、南部山城守(重直)の跡式(遺領)高十万石の内、八万石を隼人(重信)に、弐万石を弟数馬(直房)へ申し渡すために家臣毛馬内九左衞門・奥瀬治太夫が今朝、大老酒井雅楽頭(忠清)宅に招かれ、老中が列座する中で舟越伊豫守が将軍家の上意の趣き(演達の)を伝えたとして、内容を次のように記録している。

  「山城守養子願の儀、年来言上におよび仰せ付けべき処、その内に山城守死去、弟両人これ有るの段御聞きおよび、同性なるの間遺領を分け下ださる」とある。

  このことを併せ考えるならば、『祐清私記や』『内史略』などの見解には重直に対する意趣の含みがにじんでいると言わざるをえない。
 
  実は明治期に刊行された『南部史要』重信譜の中で、直房への分封に触れて、著者菊池悟郎は次のように問題提起していたのである。

  (重直死期前後の状況を記述し)家督争ひ中八戸弥六郎を立てんとするもの、徳川の一族を迎へんとするもの等あるも未だ直房を立てんとするものあらざる如くなるに、幕府にて直房に遣領を分てるは如何の理由に出でたるや、旧記中これについて一も記載せるものなし、然るに三十六世利敬公の時代、田名部御用地説の起りたるに際し、公(利敬)より幕府への嘆願書中、「先祖山城守重直死去仕り、弟大膳大夫重信家督の節、家中の者共騒擾に至り候事これ有り、拠所なく御内々申し上げ奉り候、大膳大夫重信・弟左衛門尉直房両人へ遣領相続仰せ付けられ家中一統安心仕り候事に御座候」云々とあり、これによれば、重信、直房両人に遺領相続を命ぜられしは藩よりの内願によれるものなるが如くにも見らる、当時の真相つまびらかならず。
 
  しかし、今日まで菊池氏の問題提起は等閑にされ、対応してきた人を知らない。そのような中にあって、最近に兼平賢治氏など若い人たちがようやく取り組みはじめ、共同研究者が現れたことはうれしい限りである。

  前回に紹介した船越・谷村一件など、譜代・新参諸士の抗争事件にかかわる行信(重信の息)や直房の行動の背景、真意など依然不明であり、それらの解明と相まって、重直は批判されるべくして批判されているのか、なぜ批判されたのか、真の重直像解明に興味があり、今後の大きな課題である。





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