2005年 5月 27日 (金) 

       

■ 〈古文書を旅する〉64 工藤利悦 盛岡藩預かりの大名類縁者の系譜とその後

  

■往古より御預人覚 一、大久保左京太夫(註・右京亮の誤り、大久保右内祖)・池田備前守(石川備前守貞清の誤り)・岡部藤治郎・船越伊予守・宮部兵部少輔・岸田伯耆守・松浦安太夫・萬寿院・中台院・行寿院・栗原嘉泊・栗山大膳(内山祖)・芳長老・京極丹後守(寛文三年五月三日御預、延宝三年十二月二十四日逝去)
  一、松平越後守殿家来小栗重蔵子市之助・重三郎(延宝九年七月四日御預・小栗之祖)
  (「祐清私記乾」)

  【解説】江戸時代には、刑罰として罪人を預ける制度があった。大名預、村預、親類預、宿預、非人小屋預等である。

  大名預とは大名および五百石以上の旗本は、原則として入牢せずに諸大名に託して拘禁。時には刑罰として行われた。盛岡藩内においても諸士を高知諸家等に預け監禁する例があった。

  村預・町預は村役人または町役人、および五人組に命じて自宅に監禁するもの。親類預は親族に附して監禁することをいい、主として十五歳以下の幼年又は病気等の支障により本刑の附科として行われていた。宿預は訴訟のために出府した者の逃亡を防ぐために宿泊の旅舘(公事宿)に託して拘置したもの。盛岡・花巻等にあったことが記録上で確認できる。非人小屋預は無宿あるいは急病の者など、その身分によって非人溜に留禁するものであった。

  中でも大名預・親類預には単に「預」と称するものと「永預」というものがあり、ともに無期の拘留ながら「預」は赦に合って釈放される場合もある。一方「永預」はその恩典をみないのが原則であったという。

  ここに見える大久保氏以下、小栗重蔵の子市之助・重三郎まで、慶長五年(一六〇〇年)の関ケ原の戦で敗者となった大名に始まり、江戸幕府から預けられた人たちである。

  大久保氏・船越氏のほか萬寿院・中台院・行寿院・芳長老等は後に許されて江戸へ帰った人々。小栗市之助・同重三郎の兄弟は赦免の後南部家家臣となり、宮部兵部少輔・岸田伯耆守・栗山大膳等は子孫に至って赦免となり、その後を南部家臣として盛岡に定住した人々。ただし岸田伯耆守の子孫は嗣子がなく断絶した。ここに記載されていないが、ほかに池田備中守・金森兵部少輔があり、以下三回に分割して略伝を掲げる。

  ■大久保右京亮教隆

  相模(神奈川県)小田原城主十万石大久保相模守忠隣の三男。三千石小姓組番頭。左京太夫とするのは誤り(『寛政重修諸家譜』巻第七〇九大久保系図)。慶長十九年(一六一四年)父忠隣があらぬ謀反の嫌疑を受けて改易となった。

  真相は本多佐渡守正信との永年にわたる確執から讒言(ざんげん)されたことによるとも言われている。父の事件に連座して次弟主膳幸信と共に南光坊天海に預けられ武蔵(埼玉県)川越に蟄居。元和三年(一六一七年)教隆は盛岡に移謫された。

  南部家は沐浴費として切米二百駄(高四百石)を付与した。寛永五年(一六二八年)赦免せられて旧知に復し、のち六千石。寛永二十年(一六四三年)病死した。この間、盛岡に男児が出生。養父の苗字を以て村井新九郎教正を称した。

  商家となった教正の孫井筒屋新九郎教久は、曾祖父の所縁で小田原城主大久保家より一族を認知せられ、その子友右衛門教忠は本家大久保家を介して南部家に出仕。五戸給人となった。

  幽閉された盛岡の大久保屋鋪について、『盛岡砂子』は「或る書に云、大久保右京売殿謫居(たっきょ)の地は、本誓寺と三石境内に隣て、四方に垣を結廻したる空地是れなり。右京亮殿謫居前は御預人岡部藤三郎を置れし謫居の地なりとそ。右京亮殿帰参の後、宮永左月拝領す」と記している。

  ■石川備前守貞清

  『祐清私記』は池田に作るが、石川備前守貞清の誤り。慶長五年関ケ原の戦の後に除封。宮部兵部少輔、岸田伯耆守、松浦安太夫と共に南部家に預けられた四人の一人(『篤焉家訓』)。

  初名は光吉、兵蔵、三吉とも称した。豊臣秀吉の使番、金切裂指物使番。天正十八年(一五九〇年)小田原陣の後尾張(愛知県)犬山城一万二千石を与えられ、同時に豊臣直領信濃木曽の代官を勤める。

  同十九年肥前(佐賀県)名護屋城の工事を分担、秀吉が上野(群馬県)草津温泉湯治のとき、居館建設の建築と警固に当たり(『武家事紀』)、慶長四年(一五九九年)・五年頃十二万石で散見する(『徳川除封録』)。


  関ケ原の戦には西軍に応じ、稲葉貞通等の支援で籠城したが形勢不利から城を捨て、西軍主力が関ケ原に集結と聞いて参加し敢闘、戦後所領没収となった。南部家御預の後、同十八年(一六一三年)に赦免、扶持米五百石をもって幕府御家人(『徳川除封録』)となる。

  犬山城籠城の時に、東軍加担の人質(木曽郷士)を解放したことがあり、その人士らが東軍の作戦を有利に導き奏功していたことで、黄金千枚で死を免ぜられ、自由と私財を得、剃髪して宗林と号し、京都で金融業を営なみ、寛永三年に死去したという。

  ■岡部藤治郎
  旗本。大鳥逸平を頭領とし、白昼に人を殺害するなどの罪状で慶長十七年(一六一二年)捕縛され南部家に預けられた。この時大鳥逸平は磔(はりつけ)。米津勘十郎某は弘前津軽家預け、そのほか三百人余が切腹、流罪などに処されたと伝えられている(『徳川実紀』)。寛永五年(一六二八年)許されて江戸に帰っている。この時、船越伊予守も南部家に預けられたが、寛永五年岡部らと同じく許されて旧知に復したとする説がある。

  『寛政重修諸家譜』によれば、船越氏は五郎右衛門景直の子。実名は永景。初め家康の小姓。慶長十六年(一六一一年)父の遺跡六千二百余石を継ぎ、のち作事奉行等を勤めて伊予守に叙任。寛文十年(一六七〇年)病死と散見する。その子正景は寛文八年父に先立ち病死、正景もまた伊予守に任官したという。

  しかし、事件当時は永景十六歳、正景は誕生前か。となれば両人ともに南部家に預けられた可能性は限りなく希薄。別人か誤伝と想定される。なお米津勘十郎との関係は定かでないが、承応二年(一六五三年)に米津左近があり、南部家預人として謫居(たっきょ)中での病死と知られている。

  ■宮部兵部少輔長次
  宮部中務卿法印継潤の子。名を長房また定行とも。秀吉に仕え天正十四年(一五八六年)兵部少輔。この時豊臣姓を与えられ、京城と釜山を結ぶ諸城塞の防衛に当たった。

  慶長元年(一五九六年)家督。因幡国(鳥取県)鳥取城主。因幡・伯耆(鳥取県)の両国及び但馬国二方郡(兵庫県美方郡)に十三万一千石を領した。同三年、伏見城の工事を分担した。

  同五年(一六〇〇年)関ケ原の戦には、初め家康の東征(会津上杉征伐)に従ったが、のち西軍となり伏見大津攻城に参加、西軍大敗で居城は亀井茲矩、斎村政広の攻撃を受けた。蛇足ながら『参考諸家系図』には、関ケ原の戦に遅参の罪とある。戦後所領を没収せられ、翌六年十二月十七日南部家に預けられた。

  南部家は現米百二十三駄七十人扶持(四百六十石余)を贈って厚遇した。のち剃髪して長令と号し、寛永十一年(一六三四年)盛岡で死去。長男左衛門尉長之は母の所縁で伊勢安濃津(三重県津市)の藤堂家に仕え、さらに尾張(愛知県)名古屋の徳川家に仕えたが、嗣子がなく断絶したという。

  二男兵蔵長邑は配所盛岡に生まれ、寛文四年(一六六四年)に死去。その子千勝(のち図書)長興は同七年(一六六七年)に二代将軍秀忠の十七年忌の大赦によって赦免となり、南部家に出仕して六百六十六石を宛(あてが)われした(七歳)。

  その子頼母長官の時に多賀氏と改め、長官の子図書長英、その子頼母長郷と二代にわたり南部家の家老を勤めた。明治維新後宮部に復姓し、自由民権運動で活躍した宮部謙吉はその末裔である。 (つづく)


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