■ 〈古文書を旅する〉65 工藤利悦 盛岡藩御預かりの大名類縁者の系譜とその後
|
【解説】
■岸田伯耆守
大和の人。名は晴澄(『廃絶録』)、久邑(『参考諸家系図』)、忠武(『篤焉家訓』=とくえんかくん)、道任(『内史略』后一)など諸説がある。
初め筒井順慶に随従して二千石を領す。天正十三年(一五八五年)順慶の子定次が伊賀へ移封のとき、去って豊臣秀長の麾(き)下となる。(大和志料)
文禄三年(一五九四年)主人秀保(秀長の嗣子)が死して断絶ののち秀吉に仕え、大和国山辺郡岸田(奈良県天理市)に一万石。ついで伏見城(京都府)の工事に参加、慶長五年(一六〇〇年)関ケ原の時は西軍に応じ、東軍撹乱を計画したが失敗。戦いの後所領を没収せられ、六年十一月南部利直に預けられた。
『篤焉家訓』は同年九月二十三日附の老中奉書を掲げ、十一月二日は盛岡下着の日時かとしている。元和元年(一六一五年)死去。七十余。石鳥谷町光林寺に葬られる。
その子右近久寿は伊勢津の藤堂和泉守高虎に預けられたが、父死後に赦免となり、後盛岡に来て利直に仕えて現米百駄二人扶持があてがわれたという。
重直の代更に五十駄加増せられ百五十駄(高三百石)となる。寛文三年(一六六三年)死去、本誓寺に葬られた(『参考諸家系図』)。
対して『篤焉家訓』は、親を見るために慶長十四年(一六〇九年)に伯耆守子右近が盛岡へまかり下ったとして、右近久寿との間に一代を入れ、寛永十四年(一六三七年)病死と伝える。久寿の孫七右衛門の時、宝永三年(一七〇六年)に家名断絶となったが、乱心の罪(『参考諸家系図』)説のほか、無嗣子(『篤焉家訓』)説等がある。
■松浦安大夫宗清
名は定一とも。初め和泉岸和田城主松浦肥前守(肥前の松浦氏とは別)の麾下にあり、のちに織田信長に属し、ついで豊臣秀吉に仕えて馬廻り、のち岸和田の代官を勤めた。(岸和田藩志)
天正十二年(一五八四年)小牧の陣に軍功あり、翌年伊勢井生川口へ移領、その後加増あって一万石(勢陽雑記)になったという。しかし、『徳川除封録』は伊勢井生邑主として松浦伊豫守秀任(又は久信)を掲げる。伊豫守秀任には慶長五年(一六〇〇年)関ケ原の戦のときに大津で討死(『慶長見聞記』)との説もある。
関ケ原の戦のときは西軍で伊勢安濃津攻城に参加したが敗戦で除封となり、翌六年南部利直に預けられ(『篤焉家訓』)、寛永五年(一六二八年)盛岡で病死と伝えるものも定かではない。
■中台院・萬寿院・行寿院
三人はいずれも紀州高野山末寺の僧。南部利直代に配流(年月不知)、後三人とも帰参を許されたが、中台院は盛岡住居を願い出て残留、他の二人は帰参(『御預人』)したと伝える。
記録類は盛岡城の火災などで焼失し伝存していないが、『寺院旧記』は寛文十三年(一六七三年)のこととして行信生母大智院(玉山氏)の御石塔御用で高野山へ赴いた長尾儀左衛門の奥瀬治太夫へあてた書状を伝え、「中台院・萬寿院・行寿院は、山城守(重直)様へ御預にて四十年以前に十年程御座候由に候。南部より高野へ御越、久々検校役なされ、今程は隠居の由、八十四五と見得候僧の由申来」とある。
ちなみに、盛岡にとどまった中台院は、南部家より寺領百五十石をあてがわれ、当初米野山奥福寺中台院と号した。のち重信の代に愛宕堂(のち法輪院広福寺となる、現盛岡グランドホテル所在地一帯)を建立の時に寺地を関口へ移転。寺号を高野山と改号し、寺領は現米十駄(高二十石)となるという(『寺院旧記』)。明治維新後廃寺となった。
■栗原嘉泊
『篤焉家訓』によれば、名を権平といい、元和六年(一六二〇年)九月廿五日盛岡へ下着。のち可伯と号す、寛永四年(一六二七年)病死と見える。旗本(『公国史』列伝)であったらしいが、事件の顛末(てんまつ)は不明である。『徳川実紀』にも記録はなく確認できない。
■栗山大膳利章
黒田筑前守家臣、寛永十年(一六三三年)に長子大吉利亮と共に御預となり、翌十一年二男吉次郎宗乙も続いて御預となった。大膳は承応元年(一六五二年)に病死。大吉は後に雖失と号して延宝四年(一六七六年)に病死。吉次郎は寛文三年(一六六三年)に病死した(『奥南旧指録』)。
大膳の墓碑および歴代の墓地は中台院(廃絶後は恩流寺が管理)にあり、屋敷は、「今の御薬園也」(中央公民館のある地所)と(『篤焉家訓』)伝える。大膳の父利安は黒田官兵衛孝高に仕え、各地で戦功を挙げた。
慶長五年(一六〇〇年)その嗣子長政が筑前(福岡県)福岡五十二万石に入封後、同家家老となり、同国上座郡志波に一万五千石を知行した。
利安の子大膳は元和三年(一六一七年)父と代替して家老となり(二万石)、主家長政の死後、その遺言により二代藩主忠之を補佐したが、次第に忠之と対立。寛永九年(一六三二年)忠之に謀反の企てありと幕府に訴え、翌十年幕府は忠之を訊問した。忠之には謀反の意思がないとして本領安堵、利章は盛岡に預けられた。実は主家を救うための大膳一代の狂言。
これがあらましだが、芳長老による大膳野行状顕彰の碑は現在恩流寺境内にある。大膳が盛岡謫中に三男孫之丞利政が生まれた。延宝四年(一六七六年)孫之丞は長兄雖失が死後、家臣に召出されて合力判金一枚と蔵米十駄を宛行われ、この時母方の氏内山を称した。延宝八年(一六八〇年)扶持方十七人扶持(高百二石)で二百石座となり、明治二年栗山に復姓した。
■芳長老
対馬の人 寛永十二年(一六三五年)御預、明暦四年(一六五八年)二代将軍秀忠の七回忌法事の時、諸国御預人に対する大赦令が敷かれて御免となった。長老は対馬府中(長崎県厳原町)にあって朝鮮国王との外交文書を掌った禅林「以酊庵」の二世。無方長老(『奥南旧指録』)、無法長老、世に法長老と云うは是也(『篤焉家訓』)などとも見える。
『徳川実紀』大猷院殿御実紀二十七には寛永十二年三月十二日の条に僧玄方また方長老。『寛政重修諸家譜』宗系図には僧玄方と記録している。
事件は朝鮮国王への国書に関する偽書偽印問題。対馬藩主宗対馬守義成とその家臣柳川豊前調興による対決で、将軍家光は諸大名を前にしての親裁で行われた。裁決は家臣嶋川内匠父子外が死罪のほか、柳川豊前は弘前藩津軽家に、藩主の叔父宗讃岐智順は出羽山形の最上家へ、方長老は南部家に、僧玄昊は同秋田佐竹家とそれぞれ預として結審した。
藩主宗義成に罪は及ばなかったが、そのほかにも多数の処罰者を出した。『内史略』前一一に「寛永八年(一六三一年)三月御預」とあるのは事件発端期についての誤伝(『寛政重修諸家譜』)。盛岡滞在中は北山に住居。この地は後に法泉寺境内となった。
「古木森々たる林下に小庵を結び、自ら晦渓と称して住居せるとなし。当地に止る事二十四年の久しき。この地未だ文物開けざる草昧の地。詩文は只僧侶の弄具とのみ知れる。世にて昇平の初め経典の道荏土より開けぬれば、藩士も聖経の道を学ぶ事を知り、質を委しくして貴賎となく、其草庵を問。柴戸を敲き、詩を論じ、文を学びなどして星霜久しきを過ると見ゆ」(『篤焉家訓』)と伝える。さまざまな文物・人材を残した。万治四年(一六六一年)大坂で死去したと伝えられている。(つづく)
|
|
|
|
|
|
|