2005年 6月 3日 (金) 

       

■ 〈フランス見たまま〉266 小野吉郎 エトワールの凱旋門

 
     
  エトワールの凱旋門  
 
エトワールの凱旋門
 
  12本の大通りが整然と放射状に延びるパリのシャルル・ドゴール広場の中央にそびえる高さ45メートルある門。ここは本来エトワールの丘の広場だった。ナポレオン皇帝の命令で、フランス軍の栄誉をたたえるために建てられた。ナポレオンの失脚後工事が一時中断されたが、その後工事が再開されて、30年の歳月をかけて1836年に完成した。時はフランスの最後の国王ルイ・フィリップの在位時代だった。
 
  なぜ凱旋(がいせん)門を建てたか

  そもそも古代ローマでは、戦勝で凱旋した将軍のために凱旋門を建て、将軍とその指揮した軍隊がその門をくぐる儀式が行われた。そうして門の外壁には主人公の功績が壁面の彫刻によって後世に伝えられた。ナポレオンも同じ考えだった。古代ローマのものより、もっと大きな凱旋門を後世に残そうと野心満々だった。

  しかしナポレオンは生前その完成した姿をみることができなかった。建設中、ナポレオンは敗戦で失脚し、赤道アフリカ沖の小さな島セント・ヘレナに流刑の上、死亡してしまった。工事は長く中断されていたが、フランス最後のルイ・フィリップ国王は、ナポレオン人気にあやかって工事を再開し、1836年に完成させた。その4年後、ナポレオンの遺体はパリに戻ってきた。その折、凱旋門で盛大な儀式がとり行われた。そのあとアンヴァリード(廃兵院)内にある豪華な墓に安置された。

  国葬に使われたことがある

  その後、文豪ビクトル・ユゴーの国葬が凱旋門で行われた。壁面にはおよそ500人のナポレオンと一緒に戦った将軍名が記されているが、ユゴーの父親の将軍名がぬけていた。慌てて追加された。

  しかしその後国葬は別の場所で行われる。凱旋門の周りはいつも交通渋滞で、大勢の人が集まるべきところでなくなってしまった。例えばミッテラン大統領の国葬はカルチェ・ラタンの中心部のパンテオンで行われた。

  この広場では車の交通が多く、かつて馬車が自然の流れによって12本の放射道路に手ぎわよく配分されていたが、その後車の数が増え、交通渋滞の難所になってしまった。

  無名戦士の墓

  第一次大戦後、多くの名前の分からない戦死者がいたので、盲目の傷夷(しょうい)軍人に8つの棺(ひつぎ)から一つを選ばせて、これを代表させて、地下の無名戦士の墓とした。こうしたことは大戦に参加した各国でも行われ、ベルリン、ローマなどにも無名戦士の墓がある。またあるとき、飛行機で凱旋門の下を無事くぐりぬけた飛行士はあとで大目玉を食らわされた。


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