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川口月村「舟橋之図」 |
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盛岡市愛宕町の市中央公民館郷土資料展示室で企画展「近世盛岡・絵師たちの系譜」が開かれている。南部家召し抱え絵師をはじめ狩野派、円山派、漢画系などの盛岡藩ゆかりの江戸時代に活躍した絵師たちの作品を展示。約40点を通じ、当時の流行と現代とのつながりを探っている。
盛岡藩では、幕府御用絵師として厚遇された狩野派を一貫して起用してきたという。写実性の強い円山派は中央での広がりから約100年遅れて盛岡藩で広まるようになった。将軍家への忠誠心か、不易流行に対する実直さか、その背景は定かではないが、円山派が藩内に広まるのは1850年代ごろからだった。
南部家が重用した狩野派は、室町時代後期に始まる漢画・水墨画に濃彩を加え、日本古来の大和絵の画風を取り込んで日本的画風をつくり上げた一派。江戸時代には幕府お抱え絵師として画壇の中心に位置した。しかし、先達の模写を重視した創作は、時代が下れば斬新さに欠ける面は否めなかった。盛岡では南部家御用を勤めた麻布一本松家の狩野家を筆頭に、その分流で藩お抱え絵師の狩野永碵家などが代表となっている。
狩野派の作品としては、幕府御用絵師の狩野休円・休山の「花鳥李伯像」が見られる。伝統的に三幅対として仕立てることが多い狩野派だが、このうち休円の李白の観瀑図と休山の柳にカモの2点を紹介。代々、将軍家に召し抱えられ、狩野派4家の一つ鍛冶橋狩野家の探信に書いてもらった「三幅神図」は狩野派の典型。中央に寿老人、左右に恵比寿様と大黒様を控えさせている。
狩野派からの革新を目指した一つが写実主義の円山派。江戸中期に始まり、写実を重視し温雅な装飾的画風を築いた。盛岡では江戸後期になって広がった。花輪出身の川口月嶺が江戸に出て鈴木南嶺に師事。帰藩したことで門人とともに活躍する。
展示の中では月嶺の作として「野猿図」や「盛岡八景帖」が見られる。月嶺の息子月村の「鳳凰翔舞之図」は、想像上の生き物ながら、写実性を磨いたタッチで今にも動き出しそうな画面をつくり上げている。月村の「舟橋之図」は六曲一隻屏風に仕上げたもので、現在の仙北町辺りから市中心部を見た風景。舟橋、今も残る御蔵、伐採された杉土手の杉、岩手山などが描かれている。
お抱え絵師の大きな仕事は記録として絵を描くこと。「櫛引八幡宮御神納源義家公鎧図」は狩野派による記録。家老席日誌の「日誌」に記述ある指示に当てはまる絵もある。
幕末の絵では、狩野派湯川玉泉の「異国捕鯨船」は雰囲気を伝えているが、平面的でイメージ先行の表現を感じさせる。円山派の船越月江が命令により函館に行って函館湾を描いた開港翌年の絵は、奥行きがあり細かな描写を見せ、写実性の高さを感じさせ、両者の特徴が分かりやすい。
南部利済の肖像画は狩野休意の作。「覚書」によれば、利剛が月嶺に描かせるよう指示した。しかし、3日後には狩野派に描かせるよう決定したというエピソードがあり、狩野派の藩に対する浸透度がうかがえる。
同展は7月18日まで開かれている。
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