2005年 6月 10日 (金) 

       

■ 〈古文書を旅する〉66 工藤利悦 南部家お預かりの大名の由来とその後(3)

 ■往古より御預人覚(三)
  一、丹後守(京極)様御死骸 広福寺の寺内に土葬つかまつり度由、家来衆申し上げられ候。広福寺へこの段申し渡し、葬場を普請奉行平山伝右衛門・長谷川又右衛門・欠澤釆女(うねめ)に申し付ける。
  正月二十八日(延宝四年・一六七六年)丹後守様御死骸を宝輪院寺内に葬る。その節楢山七左衛門より先に土葬場へ出御、屋敷より寺内へ御供の御番人安村監物・桂源五左衛門・工藤弥五郎・鬼柳三右衛門・穂高彦右衛門、この外前後の堅固(かため)を両御町奉行が勤める。

  丹後守殿御家来まかり登るに付き白銀三枚ずつ寺嶋太郎兵衛・明石勘九郎・お琴へ。同二枚(ずつを)谷田善左衛門・下村源太夫・吉田左五兵衛・村井甚四郎・小山専阿弥(に遣わす)、右の通りなり。

  一、延宝三年十二月丹後守様御遠去(死去したこと)なり、これによって江戸へ御使者となし神尾権太夫御登り 翌延宝四年正月上使村瀬伊左衛門 御下向御役人次第

  一、鬼柳まで道奉行宮田源六・生方治右衛門 花巻御馳走人小向四郎右衛門 同所御迎(役)野村嘉右衛門 御馬責二人 御徒二人 御小者廿八人 御給仕平賀弥右衛門 重茂斎宮 高橋嘉納右三人 外花巻御給仕(給人カ)加る

  郡山御馳走人大ケ生(大萱生)長左衛門・野々村宇右衛門(足軽四十人)御給仕に伯部小右衛門・山本嘉右衛門・大須賀又兵衛・同盛岡御宿北九兵衛・楢山又左衛門・御目付三上多兵衛・衣笠助之丞・高屋四郎左衛門・高橋惣左衛門・上田半左衛門・御町奉行高橋四郎左衛門・中途へ御使者八戸三五郎・野田利右衛門・内堀織部・不図(ふと、突然)にて江戸え遣わさるべく哉と小菅新助・山田源右衛門・布施浅右衛門・儀俄八郎兵衛・右四人なり

  一、上使村瀬伊右衛門様正月九日江戸御立に付、御家来広目彦太夫、宿(しゅく)に問屋通し文を遣し候 伝馬人足の御朱印を写候て、江戸へ差し越し候筈にて、金ケ崎検断彦右衛門より鬼柳検断因幡へ遣す「人足八人・馬五疋、江戸より奥州盛岡まで継ぎ遣すべく、是は御用に付き村瀬伊右衛門を遺わされ候に付下さる者也、延宝四年正月八日右宿中」

  一、伊右衛門様正月廿六日盛岡御着、これによって重信様、中町左兵衛へ御待なされ 新山舟渡まで御出迎え、それより御仮屋へ入りなされ、桜庭兵助・楢山七左衛門相詰め、新山までまかり出る。
  奥瀬治太夫は丹後守様御宅に相詰める、御医師渡辺益庵・飯留(飯富)良通・御祐筆照井惣左衛門詰め居る。この外前に記す役人何れもこれ有り、伊右衛門様へ杉重一組(菓子箱のこと)披(ひらき)塩引五枚・手樽壱つ、御使者野田金太夫を以て即時御用となし遣わされ、郡山迄御医師黒川道益遣わされ、鬼柳より盛岡まで道筋、御中の丸(城内)まで中砂これ有り、同廿七日朝、伊右衛門様御中の丸へ御出、御吸物を出す、但し御断りにて御料理は出さず、御帰り以後、御使者下田権兵衛遣わされ、重信様御中之丸より直々中町左兵衡処へ御出、上使丹後守様御宅へ御出の節(藩主重信様も)御出なり。

  伊右衛門様御家来、漆戸甚左衛門・櫻庭兵左衛門取り合にて、右御改め相済み、伊左衛門様御仮屋へ御帰、己の刻(午前十時頃盛岡を)御発足なり 郡山まで御使者を以て雉子拾入一箱、これ遣わされ、同所七左衛門御馳走人を、鬼柳へ御使者を以て鮎鮒一箱・梨子一籠遣わされ、御先立は野田利右衛門、御見送は八戸三五郎、御送の御人馬は御迎えの通り、伊右衛門様御上着の節、御太刀黄金馬代(金十両)時服三、御書添遣わさる。(「祐清私記乾」)

 【解説】
  ■京極丹後守高国
  丹後国宮津城主(七万五千石)、寛文六年(一六六六年)南部家に御預け。「内史略」前十四に寛文三年御預けとあるのは『徳川実紀』に照らして誤り。

  謫屋敷は『盛岡砂子』によれば「丹後守殿屋舗 地所不詳、御当家秘書に、下小路裏に有。愚按に(中略)今油町より入口西側御堀端、長内氏屋敷の裏に古き屋敷跡あり。寛政の頃迄は畑中に大樹の梨の木有、其東北に三尺計りの土手有て今に無高。且つ此屋敷より表通道有しと古老の話なり、この地なるべし。『系胤譜考』内堀系に言う『寛文六年五月京極丹後守高国御預仰せ付けられ、此時新に謫所下小路に御造営これあり、程なく是へ移る』と有り云々」。

  現在この地に栗山神社があり、伝栗山大膳の屋敷とされているが、推してさほど古くない時期に同じお預り人である京極丹後守が栗山大膳とすり替わったものであろう。

  大正年間に山本縁補記の『盛岡砂子』には、この場所を「維新後長内氏が邸宅並びに裏の田畑を岩泉村南沢嘉兵衛え売却し、南沢氏は田畑を潰して牛舎を設けて牛乳を搾り 公衆の飲料に販売せり」と伝えている。

  この事件について『徳川実紀』には、南部大膳大夫重信に預けられ、奥州森岡の地に配流せられ、その子近江守高規は藤堂大学頭高次に預けられ、伊勢の津に配流し、二男落合杢之肋親信ば松平相模守光仲(鳥取池田家)に、三男黒田万吉は松平新太郎光政(岡山池田家)に、四男寺島松之助高林は伊達遠江守宗利(宇和島藩)に、女子二人は松平亀千代(仙台伊達家)に預けられたとある。

  高国、高規は米三千俵。高国は従者十二人、高規は十三人を(謫所へ連れ行くことを)ゆるされ、三人の男子は月俸五十口(南部家の基準では五十人扶持・高三百石相当)ずつ、父入道安知には金五百両(同基準では一両高五石、二千五百石相当)、高国は二百両が給われた。

  信濃守高勝(高国弟)は逼塞(ひっそく)を命じられたが、これは父入道から、高国が「無道の事ども一々言上せしによりてなり。(世に傅ふる所は、高国世子たりし時。父入道が虔政をよからぬ事に思ひしかば、襲封の初には、家士国民をよく柔懐せしに、いつしか心驕慢を生じ、国民をせめはたりしかば、国民共入道が昔恋しく思ふほどになりぬ。入道ば、高国がをのが政事をさみしけるを深くにくみ、此ときをよき期として高国を押こめ、二男に家つがしめんとおもひ、かくはからひしが、案に相違して、をのれもたつぎなき身となりしとなん)」と見える。

  延宝三年(一六七五年)盛岡で病死。行年六十歳。法輪院に葬られた。『祐清私記』は前回と今回に及んで、上使到来にあたり南部家の対応を記載している。

  死者検使の上使を勤めた村瀬伊左衛門は、諱(いみな・本名)を重房と称し、高一千石、当時御進物番(同七年御使番となる)、のち旗本役として最上位である御留守居番に出世している。正徳二年(一七一二年)死去享年八十六歳。

  ■小栗市之助良純・小栗重三郎良戡
  越後高田城主松平越後守光長の重臣小栗美作正矩の弟重蔵重良の長子及び二子。藩内で権勢を揮った伯父正矩と政敵氷見大蔵、萩田主馬等との政争は将軍綱吉の親裁で結審。

  高田藩は取り潰しとなり、正矩親子は切腹、関係者は全員流刑や追放などに処せられた。

  南部家に預けられた正矩の甥二人、兄良純は十三歳、弟良戡は四歳。延宝九年(一六八一年)乳母二人に家来一人が供して盛岡に謫された。享保元年(一七一六年)二人はともに赦免を蒙って南部家の家臣となり、良純は百八十石、良戡は百二十石を知行。両家の子孫は連綿として現在に至っている。

  ■金森兵部少輔頼錦
  美濃国郡上郡八幡城主、宝暦八年(一七五八年)御預。同十三年六月六日病死。享年五十一歳、法泉寺に葬られた。

  宝暦四年に端を発した増税反対の百姓一揆(世に郡上一揆という)は、幕府役人をも巻き込こみ処罰されるに至った未曾有(みぞう)の大事件として知られている。

  その後天明八年(一七八八年)頼錦の孫靱負頼興の代に至って千五百石で家名立てが許され、頼興は翌寛政元年(一七八九年)祖父の遺骨を引き取るため伴僧等を引き連れ、盛岡に到着、火葬の上法事万端を済ませ江戸に帰ったという。

  この時のことを「篤焉家訓」は「兵部様御死骸御改葬之節、掘出し候処、形は少しも損ぜず。塩は堅リ候てきれひにてこれ有り候由、檜の木津え入、其上栗のきっつにて切石を組立て候て埋め候由。(中略)御改葬の後御霊屋(たまや)取り払い、御石碑ばかり(露座にて)今にこれ有り」と記している。

  その後、京都紫野大徳寺寺中にある金森家墓所に葬られたとのことである。




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