2005年 6月 15日 (水) 

       

■ 〈たきびの詩人〜巽聖歌〉135 小川達雄 新美南吉のこと12

 前回では若年の時の南吉の不幸に対して、巽先生が深い同情を寄せていたことを記したが、それは南吉を、先生は家族と同様に、身内の者として思っていたことを物語っている。
  この、家族同様の扱いというのは、南吉が病いに倒れた時に示された、先生夫妻の手厚い看護のことがあげられると思う。
  昭和十一年三月、東京外語を卒業した南吉は東京土産品協会に就職した。この勤め先は、巽先生が南吉を出版社・アルスに推薦していた(これは、編集部の先輩から、派閥を作ろうとしていると思われて挫折)ことからしても、文学志望の南吉にしてみれば、甚だ意に満たない事務所であったに相違ない。
  南吉は友人宛書簡に、こう記していた。
  「僕はやうやく仕事に慣れて来てもう人
  に問はれない限り仕事についてとやかう
  云はなくなりました。地位や自分の不幸
  にも慣れてしまひました。それでかうい
  ふ状態も幸福といへないことはないので
  あります」
  これは悲しいあきらめの心境であるが、この時、南吉は二年前に喀血して以来の病いに侵されていた。先生はこの時の南吉について、こう記している。
  「その年は暑い夏だったが、ときたま早
  く帰って彼を見ると、驚くほどの変わり
  ようだった。八月の末か、九月に入って
  床についたように思う。写生旅行に信州
  へ帰っていた妻を呼びよせ、看病のほう
  を任せた」(『新美南吉の手紙とその生
  涯』)
  この間の先生夫妻の看護については、帯金充利氏が次のように述べていた。
  「喀血した時南吉が住んでいたのは上高
  田の松葉館という下宿であった。上高田
  という住所から分かるように、巽聖歌の
  家の近所である。これは、南吉にとって
  は非常な幸運であった。喀血後、南吉は
  約一か月間寝た切りの生活をしなくては
  ならなかったが、その間、巽聖歌とその
  妻野村千春が献身的に看病してくれたの
  である。医者を呼んでくれたのは勿論、
  激しい発汗のための頻繁な着換え、栄養
  補給のためのスープや惣菜作りなど、巽
  夫妻がいなければ、南吉の寿命はここで
  尽きてしまったかも知れないのである」
  (『新美南吉紹介』)
  なんとか小康を得た南吉は、ようやく故郷にたどりついて後、巽先生には次の手紙を出していた。
  「十六日夕景つつがなく村につきました。
  熱も出ず、體もさして疲れませんでした。
  〜そちらにゐた間はなみなみならぬご心
  配をして頂いて本當に有難うございまし
  た。ご厚恩にいつ報ひられるかと思ふと
  心細くなります。こんなことではいけな
  い。もう一度自信を持って何か始めます。
  きつと始めます。
   奥さまに宜しくお傳へ下さい。父母の
  感謝も差しそへます。
  正八

  巽様              」


 


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