2005年 6月 17日 (金) 

       

■ 〈古文書を旅する〉67 工藤利悦 鹿角領と秋田藩領の境を墨引きすること

 ■鹿角領と秋田藩領の境を墨引きすること
  一、鹿角領と秋田領境へ先年御検使御下り、境御墨引き絵図双方へ御渡し置きなされ候。先年たびたびの洪水にて、御墨引きの所、今年は川原になり候に付き、御墨引きの通り境印柱を相立て申したく、古人ども申し出で、これによって御境奉行臼井仁右衛門・松岡八左衛門遣わし、秋田より信太小右衛門、双方の拠人(古人)を召し連れまかり出で、相談の上、御墨引きの通り柱十本を相立て、以後のために書き付けを取遣し候。本書は中野吉兵衛方にこれあり。写は他領箱へ入れ置く由、御用間雑書の写し。

  一、延宝五丁巳年江戸より御検使となし、設楽市左衛門様・中山茂兵衛様・設楽源右衛門様御下り遊ばされ、御境目御見分、御登りなしなされ、御境目落著仰せ付けられ候節、江戸にて双方へ御墨引御絵図を下し置かせられ候、その御絵図境沢より米代川半分とふかい(土深井)川へ御墨引き御座候、その時分は川筋別条これ無き所、近年度々洪水にて当領へ川欠け致し候に付、先年流れ候米代川の跡、唯今は川半分双方の境と御墨引御座候間、米代川右に流れ候跡、只今川原と成り候所へ御墨引の通、各拙者共立ち合い致し、吟味相談の上、末々まで証拠のため、御境印柱を拾本、この度立て置き申し候、これに依て、そこ元より信太小右衛門殿御出、こなたよりは臼井仁右衛門・松岡八左衛門出で申し候て立ち合い、御境柱立て置き候を御見分、別て相違ご座なく候、今より以後両国の御境、この柱を相守申すべく候、己来御境柱朽ち申し候か、若し亦た洪水にても流れ申し候はば、柱人足を双方より当分(等分)に出し申すべく候、柱壱本破損申し候はば、人足をは双方より出し、柱をばくじ取に致し出し申すべく候、双方立ち合い、毎度の通り御境柱立て置き申すべく候、尤も御墳柱の外、柱立て置き候儀は、御境柱紛らわしく候の間、立て置き申すまじく候、柱破損申し候て、柱跡分明これ無く時分は、川上、こなた川縁、そこ許川縁に候間、三拾弐間御座候を定かねに致し、真中へ川上より川下まで柱立て置き申すべく候、後日のため双方へ書付を取り遣わし候、以上

   元禄六癸酉年六月十三日     
                 南部鹿角花輪  
                     弥之助
                   同 左平次
                   同 七右衛門
                   同 杢右衛門
      秋田十二所
        刑部左衛門殿
        八郎右衛門殿
      味噌内 兵蔵殿
  (『祐清私記』の記録は誤字脱字が多く、文意が通じない箇所があるので、原本である『雑書』に記載する文言に差し替えた) 【解説】南部家にて、幕府の裁許に預かった他藩との藩境論争は三回ある。
  その一は寛永十九年(一六四二年)に一応の決着を見た、遠野地方を中心とした閉伊郡と仙台藩との御境論争。その二は正徳四年(一七一四年)の馬門山境を取り巻く、津軽弘前藩との論争。本紙二月十五日号「馬門山御境絵図御裏書の写」で取り上げた。その三は、秋田佐竹家との間で繰り広げ、延宝五年(一六七七年)に裁許をみた鹿角御境論争である。

  ここに示した記録の概要を整理すると以下のようになる。

  延宝五年に幕府から現地査察のために役人が派遣され、裁許状に附属して境界線が書き込まれた絵図の交付があった。それによれば、境沢から土深井川渡し、川原館まで米代川の真ん中に直線が墨引きされていた。この書状はそれを前提としている。

  その後、たびたびの洪水により河底が川原になるなど、地形の変化が認められるので再度両藩から役人が立ち合いのために出張し、協議の結果、川道が変わっても川の真ん中を藩境とすることを申し合わせ、協定書を取り交わしたと認めている。

  本書に記載されている人々は両藩の御境古人。つまり、日々に境を巡回し管理に当たった現地の役人である。この正本は秋田藩に渡され、副本は鹿角御境ならびに花輪城を預かる中野家が管理し、その写本は「他領箱」と称する書状箱に一括納められていたことが垣間見える。

  秋田藩より盛岡藩へ渡された書状は現在盛岡市中央公民館が所蔵している。これら記録類は勘定奉行の管理に置かれ、御宝蔵に納められていたらしいが、出納に際しては家老の許可を要した様子である(『旧盛岡藩勘定所事務分掌』)。ちなみに「御用間雑書」の御用間とは家老が詰める部屋のこと。

  御境柱の概要は「御柱拾本、柱長さ六尺五寸、根貫木より上六角、根貫木長さ四尺幅五寸、輪具(わく)柱角長五尺、元禄六年双方相談の上一番目より十番目まで二百二十六間、但、柱の間川端三十二間の定法、御柱一番目より五番目まで輪具の内に建、六番目より九番目まで二重しがらみ也、但、輪具なし、十番目輪具也」「壱番目御柱より拾本目まで二百十六間、川幅三拾二間、柱の間二十四間七寸」(『毛馬内通御境山並山守古人調』)である。その後もしばしば洪水により境柱の流出を見ている。

  ■譲ることのできない利権場
  そもそも、鹿角は鎌倉御家人の流れをくむ安保・成田・秋元・奈良の四氏が郡内四十二館に蟠踞(ばんきょ)し、国人一揆を結成していた土地柄である。

  戦国時代末期になると、三戸の南部氏と秋田の安東氏が互いに勢力を拡張し次第に両勢力の草刈り場と化し南部家の勢力下に落ち着いた。天正十九年(一五九一年)の九戸一揆によって、概ね九戸氏に加担したため郷士の大方は鹿角から離散している。時が流れて慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦いの戦後処理により、秋田の安東氏は常陸国(茨城県)に転封となり、代わって常陸から佐竹氏が国替えとなり入封。佐竹氏は公称五十四万石から二十万石に減封であった。新領国の実態を掌握すること、ことに藩境の確定が急務であったと知られる。

  しかも、期を同じくしてその藩境附近はゴールドラッシュに沸き上がった。北十左衛門による白根金山発見。対して秋田領ではその北側に隣接して赤澤金山が発見され、南部領の西道金山には西接して秋田領大葛金山が開かれた。

  一方、小坂川上流と、長木川に添う一帯は杉の美林に覆われ、伏見城築城には作事用材木として秀吉の元に贈られ、家康からの無心状が喧伝されている。藩境の豊富な資源は両藩にとって譲ることが出来ない利権場と化したのであった。

  ■まさに一触即発
  一触即発の論地となったのは、慶長十年(一六〇五年)長木沢の内中瀧という所での両藩の百姓たちが伐採した木材の奪い合いであった。その後各地に入会論争が出現し、両藩役人の交渉が続出、寛永十六年(一六三九年)には、幕府の指令により藩境における切支丹(きりしたん)狩りに伴う抗争事件もあった。

  この時には盛岡藩が不利に経過し、責任者の中に切腹を申し付けられる者もあり、打ち首となった百姓も出た。

  このころまでは毛馬内通(郡北)が事件の舞台であったが、慶安元年(一六四八年)ころから花輪通(郡南)に引火し、慶安四年(一六五一年)には遂に幕府評定所へ目安状が提出され、いやが上にも危機感を募らせていった。

  併せて、藩は毛馬内に桜庭氏(二千石)、花輪に中野氏(三千石)をはじめ蒼々(そうそう)たる諸士の配置を進めた。これ以上事件の顛末(てんまつ)を記述する余裕はないが、裁判により一応の解決を見たのは延宝五年(一六七七年)、おおよそ七十年に及ぶ論地であった。

  ■盛岡藩は無惨な敗訴
  裁判結果は、一般に西道金山を取り巻く郡南は盛岡藩の勝訴、白根金山および長木沢を取り巻く郡北は秋田藩勝訴とされるが、正保国絵図と、事件解決後を示す元禄国絵図を対比してみると、毛馬内靱負(二千石)ほか諸士の知行所があった長木川流域(現秋田県大館市)は全て秋田領となり、いかに盛岡藩の無惨な敗訴であったか一目瞭然である。

  最近、明治元年(一八六八年)に楢山佐渡が鹿角口から秋田領へ進軍する際に一覧したのではないかとうかがわれる長木沢周辺の絵図を見る機会に恵まれた。

  ふっと軍略のための絵図ではないかと想像した半面、かつての南部領を示すこの絵図を、佐渡はその時どのように見たのだろうかとも思った。一方、延宝五年から二百年の空間がどのように埋められ描かれているのか、気になるところもあった。


 


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