2005年 7月 1日 (金) 

       

■ 〈古文書を旅する〉69 工藤利悦 九戸騒動落ち武者伝説

  ■九戸降参のこと

  九戸既に降参に決まり、あすは下城これあるべくに定まりければ、籠(ろう)城の諸兵ならびに譜代の郎等まで、大いに力を屈し、もはやこれまでのことなりとて、人質父母・妻子を捨て落つるもあり。

  また盗み出(ママ)し、ともに打ち連れ落つるもあり、九月三日(天正十九年=一五九一年)の宵の月は、山の瑞陰に入りて、彼らが同夜半の頃までに己が役所々々をば旗・幕ばかりを残し置き、われもわれもと岩屋堂口より忍びやかに落たりけり。

  落人は既に城中を忍び出で、九戸が落居と聞きて後日の安否をきわめんとて近在に隠れておるもあり、また津軽・松前・秋田を志し、思い思いに落ちるもあり、普代の領知に引きこもり忍び隠れているもあり。

  年老いたる父母、幼き子供の足弱なれば、傳手(つて)緑故の町人・百姓などに頼み置きてその身ばかり落つるあり、いずれの国までも倶々(ともども)と言うて夢路の如きに落つるあり。

  本道は人留めもありければ脇道に指かかり、木を分け道も無き谷嶺をよじ越しければ、足弱の老弱男女その足にて慣れぬ旅のことなれば、足裏石の角(かど)木爪(こつま)の先に踏みたぎれ、行く跡紅に染めければ、あら痛や、もはや足も行かれまじ、とにかくある木の下陰などに伏転(ふせころび)て泪(なみだ)悲み、折しも明け方、寒気夜に薄き衣を片敷いて、憂夢結ぶ者もあり。

  既に夜も明けて九月五日の朝の頃は、父母・妻子、飢労(うえつかれ)し食を乞いけれども、にわかのことなれば食の支度おぼつかなく、行く先き足もかなわずして、人知れぬ深山の奥にて飢労れて死ぬるもあり、妻子を殺して自害するもありぬ。

  在家へ行きて食を乞いて打ち殺され死ぬるもあり、またまた漸々(ようよう)他国へ行きて慣れぬ後世に命をつなぐ者もある。

  既に九戸繁昌の頃は、ひち(肘)を張り肩をいらゝけて家類美々しくありし人々も、大木一本覆(くつがえ)れば小木千本とやらん。今かく吟いけるこそ誠に無惨のことどもなれ。(「祐清私記乾」)

 【解説】『東奥軍記』(『続群書類従巻』第六三〇)は、落城の惨状を伝えて「九戸左近将監政実は甲を脱ぎ、頭を剃って降人に出られけり、櫛引河内兄弟、七戸彦三郎、久慈備前兄弟三人、大湯四郎左衛門、大里修理、降人に成りて出る、九月四日に九戸城を下りけり、蒲生氏郷勢(中略)九戸一族郎従をことごとく二の丸に追い入れ、四方より火を掛けば、をりふし風はげしく陣屋に吹きかかり、猛火炎を撒きて烈々たり、火を遁れんと逃げる者は弓、鉄砲、鎗、長刀にて打ち留めらる。刃を恐れて逃げる者は炎にむせびて焦がれて死す、老若男女喚叫(かんきょう)声は有頂天に満ちて、刃傷呵責(にんじょう・かしゃく)の有様は牛頭馬頭、阿房羅刹(阿防羅刹 あぼう・らせつ 閻魔王の使)の罪人を呵責するもかくやかと思われ、目も当てられぬ有様なり、数代繁昌の九戸、一時の灰燼となりて失いけり」と書き記している。

  ここに伝える『祐清私記』の話は、その惨状を辛うじてくぐり抜けた人たちの無惨である。ちなみに『奥南落穂集』は、秋田・津軽方面へ落ち延びた人たちを掲げ、櫛引十兵衛清寛、大里備前親易、四戸中務宗光等は秋田へ。久慈備前守直治の弟同出羽守治光のほか、大湯次郎左衛門昌吉・同彦右衛門昌致兄弟等は津軽へ落ちたと伝える。

  また、四戸伊豫入道全閑は政実の子亀千代を懐にして江刺に走り、同郡の山中にある正法寺(水沢市)に身を寄せ、亀千代は成長の後、江戸に住居して徳川家に出仕(三千石)、堀野三右衛門と称したとある。

  ただし『寛政重修諸家譜』には堀野三右衛門の氏名は見えない。亀千代についてはその他諸説がある。『参考諸家系図』には、他国に落ちたのち、立ち帰って南部家に出仕した諸家の末裔を伝えるが、先祖のことについても、また合戦があったことすら黙して語っていない。

  ■政実一味党
  『奥南落穂集』や『南部根元記』は三迫で誅された諸士のほか、政実一味党として、姉帯大学兼興、同五郎兼信、伊保内刑部(美濃守)、岩館(岩崎)作十郎、上野右衛門佐(左衛門佐)、同十郎左衛門、上野民部助、大浦主殿助、大澤帯刀、大森左馬助、大野彦太郎、大野彦六郎、大野弥五郎、小神弥七郎、小笠原与一郎、長内庄兵衛、小田民部允、上斗米民部、同七郎、軽米兵右衛門、同孫六治興、同修理入道浄衣、同修理重房、工藤右馬之助、同新十郎、小泉又四郎、高家将監、高坂肥前、小鳥谷摂津守、小田子民部、小袖(小野)弥七郎、小林弥左衛門、小間杉小左衛門、坂本式部、坂本新吉、山根彦左衛門、七戸将監、同与十郎、島森安房(安芸)、同主膳、諏訪新左衛門、新館兵部允、天魔館源左衛門、同覚右衛門、中野造酒允、中野弾正、中野軍曹、中村七左衛門、中村嘉藤治、中里清左衛門、長岡(長沼)伝右衛門、夏井久膳、鳴海刑部、野田金吾(金吾郎)、野辺地久兵衛、畠山左衛門佐師泰、花松左近、古館小十郎、圓子金十郎邦種・同右馬助種貞父子、南館玄蕃、同甚吉、花崎(花輪)弥十郎、晴山治部少輔、晴山玄蕃、蛇口弥助、戸伊良監物、堀野彦兵衛、馬門(高門)小左衛門、円子金五郎、同惣五郎、三日市越前、美濃部玄蕃、宮野弥三郎、妙見寺沢別当(九戸村現九戸神社別当)、簗田甚兵衛、横浜左衛門尉、吉田掃部、和田覚左衛門等を書き留めている。

  ■九戸騒動の落ち武者伝説
  津軽・秋田方面に九戸騒動の落ち武者伝説はたくさん聞かれる。身近には雫石町矢櫃にもある。これまでに示しただれかにまつわる伝説なのか、あるいは別の人物にまつわる話なのかどうか。立ち入った話は知らない。

  一方、政実とともに三の迫でうたれたのは七戸彦三郎家国、大湯四郎左衛門昌次、久慈備前直治、一戸彦次郎実富、櫛引河内清長、圓子右馬允光種(諸説あり)。討ち死にした主な武将には高橋播磨守、岩館彦兵衛、毘沙門堂別当西法院、野田久兵衛(以上姉帯城にて討死)、根曽利弥五右衛門(根曽利討死)、九戸彦九郎実親、姉帯与次郎兼政七戸伊勢守慶道、久慈中務少輔政則・同主水正政祐兄弟、一戸図書助光方、櫛引左馬助清政、種市与五右衛門光顕らが知られている。

  政実の弟中野吉兵衛康実は、始終一貫して信直に従い、目覚ましい軍功があったことは諸書が伝えるところである。しかし、恩賞にあずかることは強く辞退したとされ、両軍将兵の菩提を弔うために一寺建立を願い出て志和郡山に長岩寺(紫波町)を建立した。

  九戸氏の菩提寺長興寺(九戸村)を中心として一寺建立についての話は次回に譲る。

 


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