2005年 7月 8日 (金) 

       

■ 〈古文書を旅する〉70 工藤利悦 九戸政実謀反の経緯

  ■九戸道心の起き事
  倩(つらつら)九戸逆心の元根を聞くに、九戸は南部の家を分かれて三百年ばかり血脈遙か隔てぬれば、家中の大身といい、諸士の指揮を世々預り来りしところに、二十三代安信公の遣命を請て御弟糠部左衛門尉高信が軍将となる。

  晴政公の(二十四代なり、安信公子)輔佐したまい、代々九戸に預け置かせられ候「銀の旄(はた)」もこの時取り返され、高信の手へ渡りぬ。

  これより九戸政実威勢も衰い、先規と引き替え、僅(わずか)に諸士百五十人を預かり、南の方の先手ばかりを承りければ、これよりして奢の余りに内々三戸を恨み奉る折節(おりふし)。

  天正元年(一五七三年)七月、故ありて君臣の間に讒者(ざんしゃ)あり。世上流言(りゅうげん)のことありければ、九戸すでに逆心し籠城に及びければ、その頃高信津軽に候ましまし、御子田子九郎信直軍将の頃なれば、諸兵相催し、すでに合戦に及びしところに八戸薩摩守禅門和平を入れ、すでに九戸より人質を捧げ、晴政公の二の姫を九戸が名跡彦九郎実親(実の弟)に縁せられて、すでに確執やみけるところに、年過ぎ、九戸一子を設けしより已来、実親夫婦と隔(へだて)疎末の振り回し言に不足、晴政公なお憤りたまいける。この年に晴政公逝去したまい、御子彦三郎晴継公は幼にして家督したまう。

  その頃信直公田子九郎殿にて御座し頃、孤を托し輔佐せらるれ共、幼君の事なれば九戸・八戸・浄法寺を始め、領内の大身互に鼎足の如く峙(ち)して、あるいは晴継公を殺し奉り、南部を一所に領せんと計るもあり、隣郷を切り取り、本領に並ばんとするもあり、斯(かく)折節、幾程(いくばく)なく晴継公疱瘡(ほうそう)にて逝去したまえば、すでに南部減亡の期に至らんとするところに、剣吉左衛門尉信愛(北左衛門がことなり)計(はかり)にて田子九郎殿を嗣ぐ続きに立ちたまう。

  これより先ず晴政公御世の頃いまだ晴継公御誕生なかりし時、南部の聟(むこ)養子は田子殿か九戸政実が内とも思慮したまえば、両家の間内心各火の如くにぞありける。

  その後晴継公御誕生ありければ両家の沙汰も取り置きける。かく故に今度晴継公の家督を九戸実親にと言う者ありけれども、四月十五日、九戸は血脈遠ければ、北信愛・南・東・毛馬内・石亀を始、田子殿議定ければ、九戸内心の欝憤止む事なし。

  しかるところに田子殿の御家来佐々木・種子・斗内その外のまた侍ども、すでに南部の直参に成り、高知を領しければ、御普代の諸士も彼らをさみするものありしところに、ある時九戸鷹の先にて出入りありて、これより九戸三戸へ出仕を停めて、信直公へ蔑(ないがしろ)にぞ見えにけり。誠に一旦は未練の内と、右下劣の言もあり、九戸当家へ帰館ありければ、時の興廃定めなく、侍ども今一万七千の領知をふさぎけり。家中一の大身と言われ、八戸を赳(こえ)て先座ありべきに、教代の領知のみならず、身を亡し妻子を害し、一族郎従数千人刑戮一期の露と失い、悪名を後代に残す。

  城下の諸町人敵付の百姓は放火乱妨の憂に合い、金銀・米穀・財宝を捨て、漸々(ようよう)老いたる親を肩に懸け、幼なき子を懐にして山林に隠れけれども、あるいは敵の若殿原鑓・長刀にて手きつ(傷)を負せられ、娶(妻のこと)娘を乱暴され、行来を失う者もあり。

  この時いかなる年哉と万民欺き悲しまざるはなかりけり。誠に古書に兵は国の大事、死生の地存亡の道とそ伝うれば、武門に生まれ干戈(かんか)を搦め、弓箭を振る人々は誠に鑑事こそと世の号(となえ)も理(ことわり)なれ。

 【解説】ここに見える説話は、九戸政実が謀叛を企てるに至った経過などを書き留めている。
  おおむね、『南部叢書』本など、文政四年写本系統の『南部根元記』と筋立てを同じくし、『南部史要』の刊行などによって広く流布した話である。

  そもそも『南部根元記』は信直が南部家の根元として記述された信直の伝記。政実の言い分など挟む余地など全くない勝者の論理であり大いに疑問を抱く。

  つまり、同じ『南部根元記』であっても元文六年写本系統本は、晴政が娘婿であった田子信直との確執を語り、しばしば文政四年写本系統『南部根元記』の筋書きを否定している。同名書であっても内容が一定していないのである。

  信直が晴政(または晴継)の葬儀を終えて帰城の折、九戸勢とおぼしき集団に襲われ、川守田館に避難した、として一般に知られている川守田事件についても、一方の元文六年写本系統本では、晴政自身が信直を鷹狩りに誘い殺害しようとしたと記述する。

  『八戸家伝記』は元亀三年(一五七二年)三月三日、信直が川守田毘沙門堂に参詣した折り、晴政によって襲撃され川守田館に逃れた。信直が発射した弾玉は、晴政身近にいた政実の弟実親(晴政の二姫の聟)に命中したこと。さらに、剣吉舘主北信愛(尾張・松斉)は、「信直は国の器、殺すにしのびない」として剣吉舘にかくまった、そのため晴政は出動したと伝える。

  八戸南部家が伝存する文書中には、六月二十四日・七月二十一日および十月十六日付の八戸薩摩宛晴政書状があり、ほかに関連すると勘考される薩摩宛東政勝書状が数通伝存し、晴政が剣吉及び浅水館を襲撃していることを文書で傍証している。

  剣吉館は北信愛の居館、浅水館は信直の叔父南遠江長義の居館である。『祐清私記』は、晴政と政実の合戦の間に八戸薩摩が入って調整役をかったと記述するが、『八戸家伝記』では、八戸薩摩が仲介の労をとったのは晴政と信直を擁立する南・北氏ら連合軍との合戦での出来事としている。

  他家においては全く抹殺されている関連記録が、なぜ八戸家のみに残されたのか、別の視点で興味はあるがここでは触れない。ともかく、北信愛は南長義の女婿であることをはじめ、後年信直の嗣、利直を取り巻く重臣の面々は、いずれも南長義と縁が認められる人物である。それらをもって勘考するならば、晴政・九戸政実の連衡と、信直をかつぐ南氏ら連合軍らとが対峙し、その帰結が九戸一揆であったと考えられてならない。

  一見、唐突と受け取る向きもあると思うが、室町幕府の記録(『永禄六年諸役人附』群書類従)は、晴政と想定される南部大膳亮と、政実を彷彿させる九戸五郎(二階堂氏)はいずれも関東大名として併記する。

  この記録を傍証するさらなる記録の出現がまたれるところだが、両家に血縁関係はあったらしいものの、主従関係にあったとする従来の説(『南部根元記』の世界観)は根本的に再考を要する課題と考える。従って『祐清私記』の説もその亜流の説とみたい。ただし戦乱による被害者に対する傷みはあってならない。このことについては時代、場所を問わず同感である。
 

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