2005年 7月 13日 (水) 

       

■ 〈杜陵随想〉渡部精治 消えた校歌

 昭和22年に今の学校法が施行されて、新しく3年制の中学がスタートした。急きょ新築された新校舎で、初めての卒業生を送り出すころになると、それぞれの学校に校歌が作られ始めた。地域の環境を賛美し、語り継がれた教訓を織り込んだ内容の詩が採用され、生徒は誇りを持って、声高らかに謳歌(おうか)した。

  昭和26年、音楽学校在学中のわたしに、郷里に近い江刺の稲瀬中学校から、校歌作曲の依頼が舞い込んで来た。前の年に、わたしの紹介で岩谷堂中学校が校歌の作曲を、同期生の作曲家諸井誠君に、依頼したいきさつを知っての打診であった。

  諸井君の作品は単純な旋律ながら、ラモーの五六とよばれる和音の進行を、巧みに使った上品な曲であった。作曲専攻の彼にはかなわないだろうが、わたしは思い切って引き受けることにした。

  依頼のあったのが5月3日、それから半月ばかりそのことに没頭した末に、下総皖一教授のお認めをいただいて、完成したのが29日であった。これが世に出たわたしの作品第1号である。

  作詞は当時稲瀬村に疎開していた斎藤春吉という方で、詩にはヒューマニズムとか理想などの言葉が出てきて、平易で新鮮な感じがした。諸井君のアドバイスもあって、二部合唱でしかも途中に、ポリフォニック(輪唱)の手法を交えてハイカラなものに仕上げた。今でも満足感のもてる曲である。

  それから半世紀、過日、当時稲瀬中学校の生徒であったという方から、突然の電話があった。近々に同級会を開くが、母校はすでに統合されて存在しない。懐かしい校歌を歌いたいとの要望が多いが、うろ覚えでなくしっかり歌いたいので楽譜を、ということであった。

  わたしにとってはとてもうれしいことなので、急いでコピーをしファクスで送ってあげた。そして、クラス会の盛会と皆さんの健康を祈った。警察官だったその方も、すでに退職されているとうかがい、年月の経過をしみじみと感じた。

  ところで、その稲瀬中学校だけではなく、前述の作曲家諸井誠の名作、岩谷堂中学校校歌もなくなった。わたしが校歌を作った梁川中学校、玉里中学校もすでにない。また、のちに市長まで務めた水沢中学校長佐藤哲郎先生からの依頼で、ピアノの恩師梶原完氏を通じ、歌劇「夕鶴」で知られる作曲家團伊玖磨に作ってもらった水沢中学校校歌も、いつの間にか替えられてしまったようだ。これも統合の犠牲なのかもしれない。

  宝石を捨てたようで残念でならない。先輩後輩のきずなが断ち切られ、地域の結束は、空しい過去のものとなってしまった。それぞれの校歌は、歌詞の内容と旋律の抑揚によって、その学校の歴史を伝えてきた。卒業生は、共に歌い共に和した場所をなくし、心を養い体を鍛え合った「支え」そのものを、失ったようなものである。

  最近、今度は高校の統廃合計画が取りざたされ、市町村の合併問題とも絡んで、地区の発展と結びつき、いろいろ論議を呼び、提案が飛び交っているが、校歌の、それぞれの歌詞にみられるように、心のよりどころとなってきた故郷の山川の姿などを歌わずして、人間形成は果たし得ないように思う。

  校歌に限らず、こうした統廃合による文化財の損失を、教育委員会ではどう処置する考えなのだろう。宮澤賢治の精神歌でも知られる、花巻農学校の行方が気になるところ。理想郷イーハトーブも、言葉だけが観光資源になってはならないと思う。

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