2005年 7月 15日 (金) 

       

■ 〈古文書を旅する〉71 工藤利悦 剃髪、染衣の姿にて九戸政実ら居城を出る

 今回は第38話に紹介した内容と共通するところが多いので、九戸氏の家系と同家の菩提寺について記述する。

  ■九戸氏の家系
  九戸氏の由緒について『奥南落穂集』は「南部三郎光行公五男九戸五郎行連九戸郡久慈城を賜り代々これに住す、十二代の孫修理大夫信実入道円心二戸郡宮野城に移住し、その男右京亮信仲永禄八年に卒(中略)その跡を左近将監政実が相続」とし、政実まで十四代と伝える。

  『系胤譜考』は『祐清私記』の著者伊藤祐清等が編集した官選系図集だが、九戸氏の分流中野南部家は「光行五男九戸五郎行連−左馬助連実−右馬助武連−宇兵衛尉連元−彦左衛門元実−兵部光康−修理光政−筑後守連康−修理信実−右京信仲−左近将監政実・弟中野修理康実」と書き上げている。

  政実まで十一代。『奥南落穂集』説に対して三代少ない。

  一方、星川正甫は『参考諸家系図』の中に『系胤譜考』を引くが、『公国史』列伝(九戸伝)の中で「他に無く闕を補うために引用したまで」と、この系図を全面否定している。

  論拠は二点にして明解である。宗家の世代数は信直まで二十六代。九戸家は政実まで十一代。従って一世の平均は宗家は十六カ年、九戸家は二十九カ年と極端に異なる。

  第二の疑問は宗家の歴代は彦三郎や彦次郎など中世一般にある名前。対して九戸家は右馬助・左馬助・兵衛尉・左衛門など官途名が目立つ。「依って系図甚だ疑うべし」とする。

  全面的に肯定は出来ないものの、たしかに兵部・修理などは東(あずま)百官と称して慶長以降に流行した名前。その指摘は納得がいく。ちなみに東百官とは平安時代に平将門が関東に新王朝を建設したときの官名とされているものである。

  このほか九戸村の九戸神社に伝存(現在所在不明)していたとする九戸系図には、「結城侍大将小笠原氏」と見え、政実まで二十四代と伝える。九戸村史は否定的見解で紹介しているが、伝存する結城家文書(元弘三年北畠顕家国宣案)は、中世に九戸郡に結城家の所領が存在していたことを伝えており、全面的な否定はできないと考える。

  いま一つは永禄六年(一五六三年)諸役人附(『光源院殿御代当参衆並足軽以下衆覚』拠・群書類従)の存在である。

  室町幕府の記録とされ、関東衆の中に「南部大膳亮(晴政ヵ)奥州、九戸五郎(政実ヵ)奥州二階堂」が併記されていることから注目に値する史料と考える。

  二階堂氏は工藤氏の支族で鎌倉・室町時代の大族。遠野南部家所蔵文書の内に元弘四年(一三三四年)の北畠顕国宣があり、室町幕府の執事二階堂信濃守行朝が代官を久慈郡(現在の九戸郡を含む)へ派遣していたことを示している。

  この代官こそが奥州二階堂氏か、政実の先祖に結びつく可能性を秘めていると考えられ、政実の冤罪をはらす意味でも貴重な史料と言えよう。

  ■九戸氏の菩提寺長興寺
  九戸落城の前夜、浅野長政の軍使として政実に降伏を説得した人物は長光寺の住僧薩天和尚とされている。長光寺とは九戸氏の菩提寺、九戸村の長興寺のことである。元禄六年(一六九三年)に発生した山火事で伽藍および仏器・記録類は灰燼(かいじん)に帰したとされるが、同寺の創建は文亀二年(一五〇二年)、加賀金沢堀河郷(石川県金沢市)の宗徳寺四世大陰彗善によって開かれたと伝えている。

  開山にまつわり次のような説話がある。そもそも、本寺宗徳寺は普済善救禅師の高弟玉叟良珍禅師が永享四年(一四三二年)に加賀能美郡粟津(石川県小松市)に龍谷寺を創建、(「洞上連灯録」)。時代がくだり文禄三年(一五九四年)に小幡宮内大夫の求法によって石川郡堀川郷に移転し龍光山宗徳寺と改称すと伝える寺院である。

  布教の版図拡張のため同寺二世龍伝恵全は越後柏崎(新潟県柏崎市)に香積寺等を開山。同寺の末寺は三戸郡名久井(名川町)の法光寺をはじめ、新潟県から山形県にかけて広く分布している。現在盛岡の報恩寺も香積寺末だが当初は法光寺の末。香積寺から見れば孫末寺であった。元禄年間に重信によって香積寺末と改められた経緯がある。

  三世宝山正珍は秋田仙北地方を行脚の時に南部氏と安東氏の戦場の中にあり、八戸氏の軍師を勤めた法縁により戦後八戸松館に大慈寺を開山。遠野の大慈寺は寛永四年(一六二七年)に八戸氏が遠野へ移封の時に随転したもの。現在八戸市にも同名の寺院が存立するが二万石の八戸藩が創立された時に、寺伝を同じくする同名寺を旧境内に再興した故である。

  四世大陰彗善は三世和尚の跡を慕い糠部に下り九戸氏の帰依により長興寺を創建した。五世大虚舜徹もまた下り長興寺二世となった。長興寺開山にまつわる所伝である。

  ちなみに十三世明室禅哲は津軽為信の帰依によって弘前に耕春院を創建している。明治四十五年に荒廃した金沢の宗徳寺を再興するため耕春院と合併して耕春山宗徳寺と号し現在に至っている。

  現在長興寺は弘前の宗徳寺を本寺とする所以である。さて件の薩天和尚について四世または五世とする伝もあるが、長興寺法灯から薩天の名を確認することは出来ない。

  天正十九年九戸城落城の後政実の弟中野吉兵衛康実は戦火に倒れた将兵を弔うために一寺の建立を願い出て実現したのが紫波町の長岩寺である。時に開山に長興寺五世俊応聞全を招請したが、主家を滅亡させた責を以て辞退し法弟梅岩嶺雪をして開かせたと伝える(長興寺伝)。

  一方、長岩寺伝では創建は永禄三甲午年、開山の名は伝わらないが、開基は志和市之進正明。文禄二年に長興寺五世岳応林賀和尚の法弟梅岩嶺雪が中興開山として開いたと伝える。しかし永禄三年の干支は庚申。甲午は文禄三年であり疑問が残る寺伝である。

  本寺は鹿角市の長年寺。なぜの答えは「中野家の知行処の変遷に随転したため」(長年寺伝)。つまり寛永六年(一六二九年)志和郡彦部村に本尊をはじめ仏器全般を移して長徳寺とし、延宝二年(一六七四年)さらに鹿角郡花輪村へ移して長年寺と改めた。従って長年寺は関連する諸寺の本寺である。明解である。

  現在長徳寺は長年寺と共に弘前の宗徳寺を本寺とするが、水沢市黒石に正法寺を開いた無底良常につながる寺伝を伝えている。総じて矛盾に満ちている説話だが、寺伝によるあらましである。

  ■欠落について
  諸書に精粗はあるが、『九戸記』はこれについて「九戸が与党を引具し、九月八日糠部を打立登られける(中略)長政直に秀次卿の本陣へ参られ、九戸誅戮の次第具さに言上ありければ、秀次卿御感悦斜めならず、九戸徒党の者共この所にて誅し、首を京都へ進めらるべく由御下知により囚人等三之迫にて各首を刎られける」という。
  『南部根元記』は、この経過を「無斬というも余りあり」と結ぶ。

  ■人質の者どものこと
  天正十九年(一五九一年)九月四日已の刻(午前十時頃)に、九戸左近将監政実を始めとして籠城の大将が八人、剃髪・染衣の姿となりて、各(おのおの)下部壱人あて相供し、数代相伝の居城を出て浅野弾正長政の陣屋へ参りける。

  この時陣門において一々家名を記しける。第一に九戸左近将監政実生年五十六、櫛引河内守長清五十二、七戸九郎家国四十三、大里修理大夫四十、久慈備前三十八にして囚われとなる。以上八人(三人脱落している)にてありける。

  一々懐中を捜して見られけるに、大里修理が懐より長さ七八寸と覚しき懐剣を捜し出しければ、士弥々(いよいよ)心を免れず、身廻り細(こまやか)に詮儀しけるに、腰脇狭ける巾着の根付にや、皆少き合口の小刀なり。

  しかれば故ありとて一々前後を囲みて本陣に至り白洲に引き居りければ、弾正殿彼らを見たまいて、汝ら籠城の心労を察し入るところなり。早速の降参神妙に候。昔より降る者を害する例なし。されば狩師も懐に入りし鳥をば殺さずと言う。命においては子細なし。

  しかし降参の法、かつ囚人となり上洛の上は、一旦は身を届けし、必ずしも上制を侵す事なれば、京着の後上裁あるべく、我、今愚案を廻すに、定めて一旦国々諸将へ預けられ、年廻て小禄を以て召し出されんと思うなり。相構えて気遣いあり申さず、既に我らそなたどもを召し具し、明日当所を出足の上は、何として信直も手指たまうことあるべからずと申されければ、九戸を始め皆平伏して万事よろしくとのみ、自余の言はなかりけり。

  それより先手と二の手との間、物頭の陣所の傍らを一間四方に、一方口に囲いて壱人宛押籠置く、昼夜武士ども、時替わり番とぞ聞こへけり。既に夜も明け、九月五日辰の刻(午前八時頃)なりしかば相図の貝聞と等しく長政が先手 (以下欠)




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