『近代文學』(昭和21年1月創刊)の誌名候補は、青銅・海流・海燕・向日葵・序説・新文芸・近代文学・文芸評論・文学精神などでありました。
長時間の誌名論議の結果選ばれたのが、埴谷雄高の『海燕』でした。一段落ついた後の雑談で「どうも、文学の文字が欲しいな」という声がしました。それでたちまち『近代文學』となったのです。
それから36年後の昭和57年1月、福武書店から文芸誌『海燕』(A5判・292ページ)が創刊されました。「嵐の前には海燕が飛ぶ」という、ゴリキーの散文詩から採ったという“海燕”の誌名は、ここでよみがえりました。その経過を埴谷が本誌に「海燕のこと」と題し書いています。
河出書房新社から福武書店に移った寺田博が、新しい文芸誌創刊に伴い「いい誌名はないか」と、埴谷らに話しました。縁起をかつぐ寺田は、文芸雑誌には「ん」という音が付くのがよいとも言うのでした。なるほど、彼が編集した文芸誌『文藝』と『作品』にも「ん」が付くのです。
埴谷から『海燕(かいえん)』の話を聞いた寺田は、早速これを譲り受けました。
『文藝』のころはまだ編集部の一員であった寺田も、『作品』(昭55年創刊)では編集部長として「地方の時代」といわれた社会の動向を背景に、地方における文学活動を重視する編集で手腕を発揮しました。
時代とともに生活実感が薄れていく都会よりは、生活実感のある地方から新しい文学は生まれる、と確信して編集に努めました。
創刊後記も「かって文芸誌『作品』を編集していましたが、この『海燕』も編集方針の大綱は『作品』を継承しています」と、意識的に地方に目を向けるのです。それが「地域の文学」原稿募集です。
創刊号には@沖縄県牧港篤三「懐胎する造語の行方」、A島根県「蛮族」同人石田登「昭和四十三〜五年山陰」、B北海道「表現」同人木下順一「来訪者」、C山梨県「谺」同人牧宏「馬糞風」の4作品を発表するのですが、地方における文学活動を重視する寺田の意気込みが伝わってくる『海燕』の創刊でした。
ちなみに、岩手文学活動の拠点となる『北の文学』(岩手日報社)の第2次復刊第1号は『作品』と同じ昭和55年10月でした。 (毎週日曜日掲載)
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