2005年 8月 10日 (水) 

       

■ 悲運の力士をしのぶ 山の上三太夫の命日に焼香

     
  三太夫が立ちはだかっているような墓碑の前で供養する参列者  
  三太夫が立ちはだかっているような墓碑の前で供養する参列者
 
  南部家おかかえ力士・山の上三太夫(作太夫)の命日に当たる9日、滝沢村鵜飼の三太夫の墓で法要が営まれた。元力士や相撲愛好者ら約10人が集い、怪力で名をとどろかせた力士の墓前で手を合わせた。

  先代から相撲に理解のある福泉寺(遠野市)の尻石正全住職がお経を上げたあと、参列者が焼香。南部相撲の名を高める活躍をしながら、刑場に散った悲運の力士をしのんだ。

  山の上三太夫は、延宝年間(1670年代)に江戸で活躍した大関。当時、日本一強いといわれた富士の山に勝ち、南部重信から富士の山より強い「山の上」の名をもらったと伝えられる。

  延宝4年、重信の長男・行信を涼ませようと、6人で担ぐ駕籠(かご)を一人で軽々と担ぎ、橋の欄干の外に差し出したことが重信の怒りを買った。小鷹の刑場で処刑される際、「今後南部からは大関は出さない」と言葉を残したといわれている。

  南部相撲に詳しい松田一三(いちぞう)さん=盛岡市住吉町=は「三太夫の墓には、昔から八戸や本県出身の力士が大勢訪れて供養し、その強さを求めてきた。実際、前頭に入った力士も多い」と話す。飯岡(現在の盛岡市)の石で造られたという墓は、三太夫が立ったときとほぼ同じ大きさといわれる。雨の日には、コケの生えた様子がにらみつけているように映ったこともあったという。

  同市菜園でちゃんこ店を経営する元力士の菅原東広さんは「強さをもらえるような不思議な力がある。相撲に関係なく、その力強さに導かれてこの場に来る人もいるようだ」と話していた。

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