2005年 8月 12日 (金) 

       

■ 〈古文書を旅する〉75 工藤利悦 北左右衛門、南部家系図を勧める

  ■北左衛門、南部家系図を進上す
  ある時光禄信直朝臣、北左衛門(後の松斉・信愛)を側近くに招きて申されけるは、当時天下の名高き武将多しといえども、今諸人遍く知りて四海に武威を振りたまうは織田上総介信長にて御座いぬ。よって諸国諸士好(よしみ)を結ぶと聞こへし、予も参上こそ叶はぬれども土産を副て使者ばかりも進めたく思ひども、遠境の果てなれば、思いながら叶いがたし、その上代々の巻物(系図書のことを言っている)も晴政の時代に回禄(火災)のために失いぬ。

  その二三年前に、信時公の御父彦次郎通継公は系図壱巻を八幡宮へ納め置きたまいぬ。その頃の家老入道何某といふ者、事を知って八幡宮より申し下げ、東禅寺に命じてこれを写しせしむ、正系の写しなれば少しも文章の捨て別るなく、これを代々御伝え有りし処に、先君晴政公御時代、天文十八年(一五四九)御城炎上の刻(みぎり)、相伝の証文・系図までことごとく焼け失いぬ。

  この時家従に所持の輩指し上げべくと触れたまへば、既に三十余巻集まりぬ。その時長谷の長谷寺に命じてこれを引き合わせ見るに、文字余多(あまた)の中より珍しき事共を書き抜きて始終綴り替えれども心はおなじ、すなわち御前にてこれを清書す。(中略)既に書き畢(おわり)て後、屋形(晴政)自彼の下書を某(北左衛門)が父に賜り、その時上意身に余り秘蔵して某に譲りけり。よって御家代々の委しき事を聞き覚え申すとて、左の反古を信直公の御前に御覧に入れけり。

  【系譜割愛】
  その外筆にも及ばぬ言い伝え余多(あまた)ご座候へ共、段々御物語申べく、先ず荒まし斯くの如くにて候とて、北信愛一巻を書き認めて献じける。

  信直公御感悦斜めならず、しからば信長公へ御使者を登らせん、何者が然るべきとのたまえば、北左衛門が承り、今度の御使者は一大事に候、所詮某まかり登り申すべく、幸いよき伝に候へば御心易く思し召せとて、御家の由緒を荒々書き抜きて、わずかに馬三疋・大鷹五居所持なり、天正十年(一五八二)六月中旬糠部を打ち立ちて、北国へ懸り登りしかば、下越後へ着きぬれば、信長公京都にて逆臣のために六日生害有りし由、専ら沙汰有りければ、北左衛門不安に思う。しばらくその所に逗留して世聞を聞き伝え、果たして是の如くに信愛大に力を失い、今は登りて詮なしと下越後国より本国へ帰りける。(「祐清私記乾」)

 【解説】
  清和源氏南部家の由緒を伝える説話である。(一)信直が家督を継いだ当時、南部家には鎌倉以来の家系を伝える系図は存在しなかったこと。(二)南部家は織田信直に誼を通じようとしたが未然に終わったとする二点が記されている。

  (一)に関連して、北信愛が携えて上洛したとする系図はいずれへ紛失したのかという疑問は残るが、『祐清私記』は寛永年間まで南部家に南部系図は存在しなかったことに触れ「寛永十八年(一六四一年)新羅三郎已来南部系図を奉る、傳曰、其頃上方より方長老と云う僧下り居合い系図の文を作る、重直公御世なり」(「様々取集書事」)と記述している。

  また「寛永十八年六月九日南部家御系図(を幕府が)御所望にて、御留主居奥瀬内蔵助が持参し差上げ申し候、私に曰(伊藤祐清が意見)、将軍家光公の正保元年(一六四四)五月に諸家系図撰三百七拾巻この時の事なるべく、御処望の儀古老聞きおよばず由」(「重直公御代のこと」)とも伝える。

  この一連の記録は幕府によって『寛永諸家系図傳』が編纂された折、当時南部家に系図が伝存せず方長老に作成を依頼したと伝えるもの。近世南部家系図の中で伝存最古の系図である。

  中世以来の記録類が信直の手許に伝存しない理由について、三戸城火災による焼亡説は『祐清私記』を援用した『南部史要』に代表される説。『南部根元記』の一本である元文六年写本本には「晴政公(世子晴継の早世をはかなみ)、信直には不快になり玉へば、重て家督御相続御沙汰にも及ばず、前代より相伝わりし代々将軍家の御教書等その外御家に傳りし御重宝の記録等を見玉ひては、我これ誰に譲るべき、いたずらに他(信直を指して)の宝になさんよりは焼き捨てるにしかずとて一所に集め自ら火にかけ焼き捨て給ひけり、南部家累代の記録等この時多くは亡失す云々」とする説を掲げ、三戸城が火災灰塵に帰したことは記載していない。

  次に南部家と織田信直に接点がなかったとする(二)説について。
  実は『南部史要』は室町幕府が滅亡した天正六年(一五七八年)七月の条に「公(二十四代晴政)使を京都に遣し、駿馬・鷹を織田信長に献ず、信長大に喜び使者に饗膳を賜ふ」と『祐清私記』説を否定する立場を見せる。

  これは『信長記』(しんちょうき)同年八月五日条に「奥州津軽南部宮内少輔御鷹五疋進上」また同月十日条に「万見仙千代の所へ南部めし寄せられ御振舞仰せ付けらる。此時御礼申され候なり」を援用したもの。

  伊藤祐清はこのことを知らなかったに過ぎない。但し津軽の南部宮内少輔を晴政とした『南部史要』の論拠は知るよしもないが、検討を要する問題であることにかわりはない。

  視点を変えて二三の記録を紹介する。時代はさかのぼり応永二十五年(一四一八年)八月のこと。南部家が多大の馬・金を足利幕府に献上したことで公家たちのど肝を抜いたことが『看聞御記』に「関東大名南部上洛、馬百疋、金千両、室町殿へこれ献上云々」と見える。

  永享四年(一四三二年)に南部氏は下国安東氏を田名部から蝦夷地へ走らせたことが(『満済准后日記』)に見える。この事件との関わりは知らないが、遠野南部家に康正三年(一四五七)の田名部事件で家臣二十人が出雲守・越前守など官途名(官職名)が与えられたことを伝える官途状が伝存(『南部家文書』)する。

  遠野南部家こそが南部惣領家ではなかったかとする工藤弘樹氏の見解「糠部南部氏と波切井南部家」もある。

  見解は別として、いずれも三戸城が焼亡し云々とする以前の伝承である。近世初頭に伝承が消えていても理由立ては成立する。しかし、『後鑑』は「大館常興日記」を引いて同年に将軍足利へ馬を献上晴の一字を拝領した南部彦三郎に触れ「奥州南部彦三郎御礼申上、御字の事申し候(中略)南部こと承り候、御馬など進上候て一段の輩と見え、如何にも然るべくと存じ奉り候」と伝える。

  ちなみに南部彦三郎とは二十四代晴政の通称。『寛政重修諸家譜』は永禄六年(一五六三年)に死去と伝える。永禄六年の足利幕府役人帳には南部大膳亮で散見する。

  『御系譜』は「永正五戊辰年家領を継ぎ、将軍義晴公より御諱字を賜り晴政と称し(中略)永禄六年逝去」。『南部根元記』(元文六年写本)は「元亀三年八月四日世をさり給ひ四日殿と称す云々」など諸説があり、晴字は甲斐国の武田信玄晴信より受けたとする説も多く見かける。

  大変な回り道をした。『信長記』天正六年(一五七八年)八月五日条に散見する「奥州津軽南部宮内少輔」は晴政であるとすることに予断は許されないが、これら事件には三戸城焼亡により云々は通用しない。伊藤祐清が「信長記」の存在を知っておればこの談話は成立していなかったと知られる。

  信直以前の記録伝承は押し並べて途絶に近いものがあると考える。方長老の南部系図及び『南部根元記』はそのような状況下で成立を見ているものと勘考する。

  明治三十年代に南部家内に設置された南部家史編纂局は、歴代系譜の調査を試みて「信直公以前の御系譜甚だ不審のみこれ有り、治定の勘考更にこれなく候」と吐露している。なぜかについての回答は異次元の問題であり機会があれば語りたい。

  南部家の中世史は『南部根元記』(特に南部叢書本)と同系統本を主な拠り所とした『祐清私記』や『聞老遺事』等を主要原典とする『南部史要』の筋書きによって語られている部分が大きい。そのことと、市中央公民館が所蔵する膨大な南部家旧蔵文書には、近世史料ながらも問題点をあぶり出す史料もあれば、またそれを解明するために資する記録類も多く伝存されていることを付記しつつ、思い上りの禍筆に反省の意を表し謝する。

  【註】本文系図を割愛したが、掲載する系図は元禄期以降に成立した系図と勘考される。


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