■ 〈阿部陽子の里山スケッチ〉15 千沼ケ原(せんしょうがはら、1340m)
|
夏が来れば思い出す−と、尾瀬を歌うが、わたしの夏山は千沼ケ原の「あの鍋の中」に思い出される。
8月のその日、国見温泉から葛根田に抜けようとしていたわたしは、長丁場のだらだら道によほどうんざり顔、だったらしい。コース半ば熊見平で、ぼんやりササ原を眺めていると、見知らぬ人に声をかけられた。
「この先でしょっつる汁、煮とくから…」
「おおーッ『しょっつる』だって!」聞いたとたん身もこころも軽い。厚かましくも千沼ケ原の水場へすたこらサッサ、だ。野菜に魚醤(ぎょしょう)のうま味がからむ初めての味。なるほどこれが秋田の名物「しょっつる」…か。
秋田と岩手の県境なす中央分水嶺。アルミホイルをくしゃくしゃ握って広げたような1千メートル以上のピーク、奥羽山脈が累々と走っている。とりわけ田沢湖町(9月より仙北市)と雫石町にまたがる一帯は、騎士の盾を伏せたカタチにそっくりな盾状火山で、おびただしい数の湿原や池、沼を形成。お花の宝庫である。
中でも千沼ケ原は、湯森山、笊森山、烏帽子岳、三角山(みかどやま)に囲まれた池塘(ちとう)の大高層湿原、雲上にぱぁーと広がるオアシスだ。
「岩手の山やま」(熊谷印刷出版部)によると「昔から、土地のマタギたちの間ではお田植え場と呼ばれていたが、詳しいことはわからなかったという。戦後、登山家の間で尾瀬以上の日本一の湿原と話題になり、調査が行われ、池沼の数を数えてみたら九○○以上あるということで『千沼ケ原』と名づけたといわれている」−とあるから、登山者の目に触れてせいぜい50年。鳥でも、その広さがワカンナイだろうなぁ…と、ついぞ思わせる。
ヒナザクラ、ミツガシワ、イワイチョウ、ニッコウキスゲ……など、雪解けとともに多彩な植物が短い夏を惜しんで咲き競う。そして、水辺を飛びかう小さな虫をジワッとねらう食虫植物、モウセンゴケが池塘のフチにびっしり。―静と動―のはざまで蠢(うごめ)く植物のかけ引きに驚く。
県道194号・西山生保内線から滝ノ上温泉を目ざす。葛根田の大岩屋(玄武洞)から4キロ弱、あるいはその先1・5キロ左に、登山口の目印のクイが立つ。どちらを登っても平ケ倉沼で合流し、その後は1本尾根だから分かりやすい。
5キロを3時間30分で登り、同じルートを下って2時間。標高1340メートルの華やかな湿原をゆるゆる味わいたい。
千沼ケ原の取り付きで汁を炊いて待っていた秋田の山崎七郎さんとは、あれから山事情を伝えあい、二十数年になる。 (盛岡市在住、版画家)
|
|
|
|
|
|
|