■ 〈野村胡堂の父からの手紙〉20 八重嶋勲 中学生5人が秋田県下を俳句行脚
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■26 はがき 明治33年6月22日付
宛 盛岡市馬場小路照井勝知方
発 不明
本日出盛セリ午后三時過キ四時迄ニ紺屋町斉藤友次郎方ニ耒ルベシ
六月廿二日
野村長四郎
【解説】「本日盛岡へ出る、午後3時過ぎ4時までに紺屋町の斎藤友次郎方へ来ること」という内容。
このはがきは、黒インクのペン書き。これまでは墨書であったので、筆跡はまるで別人が書いた感じがする。このころからペン書きに移行する時期であったろうか。
紺屋町の斎藤友次郎方は、定宿としていた斎藤旅舎。長一を宿屋に呼び出していろいろ情報の交換や打ち合わせをしたり父としての教えをしようとしたのであろう。
■27 はがき 明治33年7月7日付け
宛 盛岡市馬場小路照井勝知方
発 不明
前畧 請求之金員ハ耒ル十二日頃迄ニ到達相成候様送金可取斗候、乍毎度不出耒之科目ニ就テハ殊ニ奮励可致候、余者面会ト申残ス
七月七日
野村長四郎
【解説】「前略 請求のお金は来る12日頃までに着くように送金の準備をしている。毎度ながら不出来の科目については殊にも奮励すること。余りは面会に申し残す」という内容。
さて、『胡堂百話』の「俳句行脚」、『随筆銭形平次』の「半世紀前の吟旅」の随筆にある、盛岡中学生による4週間の秋田吟行はこの時期に行われている。特筆すべきことなので、紙面を大きく割きたい。
「俳句行脚」より「明治三十三年の夏である。今では、時代劇の大部屋ででもなければ見られない糸ダテという物を着て、高慢ちきな中学生五人が、秋田県下を四週間にわたって俳句行脚した。奥羽線も、花輪線もない時代だから、一日十里を、テクテク歩いて能代から秋田、それから八郎潟を舟で縦断したのだが、能代の浜で大変な騒ぎにぶつかってしまった。一行は岩動炎天、同じく露子、猪狩五山、猪川箕人、それに私の合計五人。(以下略)」
そして地方の俳壇で鳴ならしている能代の島田五工、川尻の佐々木北涯、女米木の石井露月等何れもれっきとした成人達を相手に総計25回に及ぶ運座(俳句会)を行うなど、いろいろな珍道中を重ねて二十何日かで盛岡に帰ってきたのであった。随筆はかなり克明であるが、しかし足取りのはっきりしないところが多い。
胡堂が現地から父にあてた書簡の下書きに旅程が詳しくあって参考になるので今後の研究のため次に掲げる。
明治三十三年七月秋田縣ヘ旅行セシ
節、土崎町より父上へ送れる書状
野村長一
電報為替相とどき申候、今日は秋田市ヨリ二里先の土崎ト云フ所ニ泊リ申候
拝啓 天気不順ノ候ニハ不拘御家内様ニハ御清康の御事と察し奉り候、下而小子儀も無事ニテ甚活溌ニテ旅行致シ居候間乍憚御休神被下度候、其後正ニ御音信参ラスベキ筈の所何分旅行中の事故其ニマデ及ビ兼ね甚御申訳無之次第ニ候、サテ私ハ其後、先日モ申上候通リ十六日盛岡泊、十七日荒屋泊、十八日花輪泊、十九日大舘泊、其翌日ハ馬車ニテ十六里ヲ能代ニ着シテ島田(五工)方ニ二十二日マデ滞在シ二十三日能代発四里を行キテ鴨川ノ佐々木久之助(北涯)ト云フ所ニ三日滞留シテ、今日(二十六日)細雨ノ中ヲ十里余行キテ土崎ニ唯今到着致シ候、
されば電報為替ノ儀は佐々木(北涯)方ニ来リシ夜電報為替来リシ由通知有之テ知リ申候ヘ故未ダ為替受取リ申サズ候故帰途十和田ヘ廻る旅費と致スベク存居候、
自分勝手ノ旅行ニ電報為替マデワズラハス次第幾重ニモ御用捨(容赦)被下度御高志ニ感謝仕リ候、當地ハ一昨日来濃霧ニテ加フルニ昨日ノ大雨ノ為余程出水ノ様子ニ候、御地ニテモ此節筈御満足ノ事と存候、
旅行中ハ中々面白キ事多ク先日ナドハ八郎潟ニ水(舟)ヲ浮ベテ自ラ漕ギテ半里バカリ沖ニ出デ候、泊リタル家ヨリハ甚厚篤ナル世話ニ有(相)ナリ明日ハ秋田市ヨリ川辺郡の女米木村ト云フ所ノ石井(露月)ト云フ内(家)ニ泊ル筈ニ候、(行路凡九里)、二十八日ハ女米木ヨリ出デゝ秋田市泊、凡七里、二十九里(日)ハ船川泊、凡七八里、三十日ハ男鹿海岸ノ風景ヲ見テ舟ニテ男鹿ニ至リ泊、(尤風強ケレバ陸路)、三十一日ハ男鹿陸上ノ風景ヲ見テ再ビ鵜川ニ泊、(男鹿半島ノ風景ハ蓋シ東北唯一の絶景ニシテ凡(恐)ラクハ其壮大松島ニ一歩ヲ凌グト申居候、海岸ハ島散布シテ海水断岩(崖)ニ激シ、夫婦岩及様々の窟有之由ニシテ陸上ニハ漢(北宋)ノ蘇軾ノ流サレテ来リシ跡及秦ノ徐福ノ来タリシ所及、西王母ノ桃等ノ名所有之由、ナレバ是非一観致シタク候)其翌日一日ハ能代泊、二日ハ小繋泊、三日大舘泊、(大鉄道馬車ナレバ能代ヨリ一日ニ参リ申スベケレ代価高キ故)、四日小坂泊、五日十和田泊、六日十和田滞在又ハ小坂泊、七日小坂又ハ花輪泊、八日花輪又ハ田山泊、九日田山又ハ松屋(尾)泊、十日松尾或ハ盛岡、十一日盛岡又ハ帰宅ト務義(義務)を定メ居リ候、尤強メテ日ヲ節滅(減)シテ盆前ニハ帰宅致シ度候得共男鹿ト十和田ハ是非一度見ル筈ニ候、
此頃ノ雨ノ為ニ水揚器ハ不用ノ事ト存候得共、今其大体を申上候、尤同器ハ秋田致(至)ル所有之候得共労力ヲ費ス事多クシテ水ハ一尺五寸計リノ高サニ上ガル丈ニ候、尤水ノ量ハ田一日百刈以上二三百(文章はここで途切れている)
(筆書きの「旅程図」の中に)
是非早く帰宅致須べく候、先は用事のみ、余は後便とゆづり申候、匆々□□
七月二十六日夜、旅泊にて 長一拝
父上様
という父あての胡堂の書簡の下書きである。胡堂の随筆や諸研究書と併せて読む時、歴史に残る奇抜で愉快な俳句行脚の様子がはっきり見えてくるものがあるだろう。
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