2005年 8月 14日 (日) 

       

■ 〈伝承の周辺〉394 遠山英志 真田幸村の墓

 盛岡のMさんから生前、宴会の席で「真田幸村の墓が紫波町のS寺にあるらしい」と教えられた。そのときはまさかと思い、そのまま打ち過ぎたが、最近、妙に気になってきた。

  S寺の住職さんに真田幸村関連の伝承の有無をたずねた。境内に真田家関係の墓は存在せず、同じ町内にあるK寺のことではないかとの答えが返ったきた。

  早速、K寺の住職さんに確認したところ、おおよそ次のような内容を教えていただいた。

  真田幸村は大坂夏の陣で敗れ、秋田の佐竹氏預かりとなった。その際、数人の家来を引き連れてきた。その残党がS寺前に住んだ。その家は真田(まだ)と称する屋号を有していた。

  真田幸村は安土桃山時代・江戸初期の武将である。初めは上杉景勝に属し、後、豊臣秀吉の近侍となった。関ケ原の戦いでは豊臣方に属した。元和元年5月7日、大坂夏の陣で戦死した。その地は茶臼山である。法名は大光院殿月山伝心大居士であった。

  幸村が実は戦没せず、逃れたという伝承もある。豊臣秀頼を奉じて薩摩に逃れ、島津氏を頼ったというものである。

  しかし、この伝承を信用する研究者はいない。幸村は諸葛孔明や楠木正成と同様、寡兵をもって大軍を破っている。大坂冬の陣では、大坂城外に真田丸を築き、城の南西玉造口に一郭を構えて徳川方をさんざん悩ませている。

  けれども、豊臣秀頼の招きに応じて入城した大坂冬の陣において幸村は種々献策したものの、退けられた。

  この状況は、献策を採用されず、勅命によって絶望的な戦線におもむく楠木正成に似ている。

  幸村への同情もあって創作されたのが真田十勇士である。明治時代の講談「真田幸村諸国漫遊記」で原型が作られ、小型講談本「立川文庫」シリーズ(立川文明堂)によって真田十勇士の活躍が鮮やかに刻印された。これら架空の世界は、あたかも実在した歴史上の人物であるかのように見えてくるから不思議である。

  西上する徳川秀忠の大軍をわずか2千の手兵で阻止した幸村のため、秀忠は関ケ原合戦に参加できなくなった。このことだけをもってしても、徳川家康が最も恐れた武将と伝えられるのも、けだし当然のことである。

  このように徳川方を陥れた幸村は、幼いころより聡明であった。幸村の計略もさることながら、彼を支えた家臣団も無視できない。

  摂津湊川の戦いで集団自決した正成の主従と異なり、真田一族の誰かがどさくさにまぎれて落ちのびたのではあるまいか。

  確実な史料はないが、ゲリラ的閲歴のある人物が逃れてきてS寺前に根を張ったと見ることもできよう。

  現在、S寺の前には、N家およびその分家が軒を並べており、真田という屋号を持つ家はない。真田一族の流れがN家の先祖の可能性をもある。

  かつて本県の知事を務めた人は、N家から出ている。

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