2005年 9月 2日 (金) 

       

■ 〈古文書を旅する〉78 工藤利悦 斯波殿、中野舘を囲

 

■斯波殿中野舘を囲む 付福士伊勢中野へ援兵のこと
 
  しかるに天正十四年(一五八六年)の頃とかや、斯波の家従高田吉兵衛という者御所へ御暇(いとま)も申し上げず白昼に糠部へ懸け入りければ、斯波殿大いに怒り、この由を三戸へ断わられければ中々返され給わず。それより斯波と南部と不快となり、終には闘争出来なりと沙汰あるところに、月を経て高田吉兵衞、志和郡の押さえとなりて不来方へ来り。

  その名を中野修理と改めけるよし、御所へ告げる者あれば、御所の憤り弥(いよいよ)増し深く、日頃修理が悪逆を免じがたきところに、はばかりを存ぜず某(それがし)が押さえに不来方へ来るよな、我を嘲(あざけり)たる推参(すいさん)なる次第なり、このところ(処置)は中野が一心にあらず、糠部の所為なるべし、しからば某が相手は信直にてあり、近年世嗣ぎたびたび替わり武威衰へ、家中安堵無かりし由風聞ありければ、この時こそ幸なれ、まず悪しかりし修理を討ち、勝ちに乗じて糠部へ馬を入れんと申されければ、高水寺左京という者諫(いさ)めて曰く。

  この儀しかるべからず、近年味方も一分切りの構中に一同つかまつらず、まして争戦の場に及んでをや、その上糠部へ漏れ聞こえん事もはかりがたく、淺早俄(あさはか)なる御心なり。ことに南部信直と申すは生質仁徳深く、心勇気寛洪なれば、南部五六代以来の大将とて諸従一気(一揆)つかまつり、頃日は岩手郡も帰属つかまつるとて聞き伝え、近隣の事なれば南部と確執しかるべからずと諫めけれども、御所怒りの色見えてさらに承引なかりしかば、左京再び申すさま、南部は奥東奥北並びなき大国、その上軍勢多し、倩(まこと)昔を考え見るに、中野修理この方へ来りつかまつりしも定めて間者。ここにてこそ有りべし、思う子細候えば、この儀頻(しきり)に相止められよと申けるところに、大勢の中より一人進み出て、左京というをそろへて諫(いさみ)けるを何人と見れば、往昔安芸守(先代詮真のことか)の頃、側に召しつかえける赤石藤十郎という者なり。

  御所大いに怒りたまい、世に恐ろしきは信直ばかりよな、予勇強有らまし義と侮っていいならめ、定めし汝は中野修理に語られ南部へ一味つかまつり我らが出馬を延引させ、この由告げんとの事なるべし、恩を忘るる逆心者、それぞれ切って捨てよと申されければ、いずれもいろいろと侘(わ)びて命を免じ、高水寺左京進・赤石藤十郎両人を小屋敷修理に預けられども、後は恐れて諫むる者なし。よって勢いを催され、その年秋の末、その勢三百余騎にて不来方へ寄せたまう。

  既に志和郡中島のあたりに両軍勢をそろえ、二手に分けて追手(おおて)は御所八左衞門が大将にて百五十騎を打ち従がえ本道を直に寄りければ、搦手(からめて)は稲藤大炊左衞門が大将にて百五十騎を引卒し北上川を打ち越え向かいの岸(左岸)へ打ち渡り山手に付けて押し寄せる。

  御所も半途まで馬を出され見前(盛岡市)という所に陣を張る。中野修理この事をつたえ聞きて某が命今日に極まれり、潔く討死にせんと手勢二十余人、北上川瀬へ打ち出で、砲矢をそろえて待ち居たり。

  既に斯波勢川岸へ押し寄せけれども、淋雨降し後なれば、大水岸を湛漲波瀬枕(増水して岸へ浪がたぎっている様子)を打て流れければ、水濁れて浅深を知らず。斯波勢進み兼ね川岸に馬を立て猶予して見えければ、中野修理敵をあざむき引き入れんとて声々に悪口をすれば、寄せ手も昔を引きて散々に詈すれども、瀬の波音にはその声も聞こえずして大勢川端へ進みて遠矢を射懸けれども、川幅広くしてこの方の岸へ一筋も来たらず空しく時を移しけれ。

  しかるところに中野修理東の岸(左岸)を見渡せば、その勢二百ばかり真黒になりて経ケ森(蝶ヶ森、北上川左岸にして支流簗川の対岸=左岸=にあり)に寄るを見て、さて搦手の敵ならん、手分けして防せがんにも小勢なればはかりがたし。竊(ひそか)に城を取らん事もはかりがたし、去来(いざ)や本陣にて防がんとて中野の城へ引き籠もる。

  斯波勢思ふままに乗り入れ三方より(中野の城を)取り囲み息をも継がず責めけれども、堅く守りて陥ちず。されども城中小勢なれば持ちがたく見えにける。

  中野これを見て勢を労(いたわり)ぬ。その内に死に狂るいに駆散し城外にて死せんと大刀振り抜き討て出れば、斎太郎これを見て、君が手を下せたまう敵にあらず。この一乱の根は某なり、ひとまず荒切つかまつらんと言い捨て、真っ先に懸け出ければ、中野これを見て汝を敵に打たせては某が耻ならん、それ続くの者どもと二十余人を左右に立て、驀地暗(まっしぐら)に討って出て、三百余騎と駈け合い縦横に切り廻し散々に戦いければ、敵もしどろに見えけれども、無勢に多勢の習いなればわずか七八人に打ちなされ、修理も危く見えけるところに、福士伊勢この騒動を遙かに聞き、中野へ急ぎ救すば後日の咎はかり難し、いざや加勢致さんと五十余騎を打ち従がえ、喚(わめ)き叫んで切りかゝる。

  中野・福士が軍勢は斯波方と見合いすれば九牛の一毛なるとも、すはや加勢の来るというとともに斯波勢散々に乱れけるを、中野福士が力を得て揉み立て闘いければ、寄手北上川を越え兼て、搦手の勢と一ところになりて山手に付いて遁(のが)れ帰る。

  中野・福士は声々に呼びければ今日の合戦は切り取り勝ちの勝負なれ、いかにいかにと呼ばれども耳にもさらに聞き入れず、南を指して退けるが、後陣は五日市(盛岡市東安庭五日市川原付近か)にて反り合い戦いけるが、中野・福士に切り立てられ、ここにて余多(あまた)討たれけれ、追付にせらるる程に百五十余人ここにて亡びたり。

  敵を恐れて逃げんとすれば味方押さえに北上川へ突き落とされ、溺れ死にする者数知らず、親を捨て子を顧みず、我先にと逃げる。中野これを見て経ヶ森(蝶ヶ森)へ打ち上り、斯波勢を見下ろし射手をそろえて下挙げ引懸々々散々射すくめければ、乱れ箭(弓矢の矢であるが、矢は素材を問わないのに対して箭は竹材の矢。弓矢は古今通用の名、弓箭は後世の名ともいう)雨のごとし。

  両大将ようよう進みて紫波郡手代森ケ館(館主・手代森太夫秀親あるいは秀道と伝える)へ逃げ籠もり、敗兵を集めて用心せり、中野・福士思う程に打ち勝ちて永追いすなと経ケ森より帰りしが、中野思う子細あり候とて取って返し、三十餘の兵を打ち従ひ手代森まで打ち入り、大音上げるるは、きょうの取り合い切り取り勝ちの約束なれば岩手勢手代森まで切り入りたり。

  後日に論ずる事なかれと言いて境柱を立て置き、駒を早めて引き返えす。栗谷川小次郎・大釜壱岐・米内右近・不来方淡路を始め、各慶善舘・中野館へ追々馳せ集まり、城々を堅固しけり。斯波御所先陣敗走と伝え聞き、急ぎ陣所を引き払い居城を指して帰られけり。

  中野これを聞きて戦わずして勝つとはこれならんと、手勢を引き連れ見前へ打ちて入り、五寸四方角の柱へ是より西は湯澤山、東は手代森より北筋は南部領と書し、力に任せ曳(えい)と言いて大地に通れと打ち込み、ゆるゆるも、よもや抜けじの境柱と高言し、それより見前の館(志和軍戦記に飯岡平九郎高道の臣見前若狭の居館とある西見前の古館か)に入りしばらく居けり。

  福士この儀不安に思うて日戸内膳を選び出し、見前の奉行とさせ急ぎ中野を引き取りける。これより争戦たびたびにて人民歎き悲むも理とこそ聞こへけり。

  伝曰、見前に日戸館と言う所あり。この時の事なるべし。世人これを取り紛れて見前の領主は日戸氏と言えり。この先は斯波方の領主ありしが御所敗走によって同城を明けて高水寺城へ籠りぬ(天正二十年の城割り書上に志和郡之内見舞 平地破 信直抱代官日戸内膳とあることに触れた見解)(「祐清私記乾」)

  【解説】
  この説話は前回の話の続き。斯波家は同家を出奔した高田吉兵衛(中野修理)を三戸南部家は庇護(ひご)したのにとどまらず、斯波氏に対峙する軍将として岩手郡中野館に配備したことを心憎く思い、南部氏との決戦を思い立ったことから始まる。

  側近の諸士はその無謀さを説き、思いとどまらせようといさめたが、かえって処罰者を出す始末。その末に中野修理を血祭りに上げるべく戦火を交えたが、逆に「九牛に一毛」の中野勢に敗退したとする。斯波氏滅亡の端緒を伝える軍(いくさ)物語りである。

  『盛岡砂子』は松尾町の松尾社の項に、『御当家秘書』を引いて、「この山を飛鳥川館と云と有り、何人にていつ頃居りし事や詳ならず、その後天正の頃中野氏、是に拠りて中野館(実は、中野氏は中野館に居住して在名により氏としたと記載すべきであろう)と云、同書に曰く、福士伊勢は慶善館に、中野修理は中野館に東西に相対して街道を挟むと有り、然ればこの山の下の道は街道なりし事顕然たり、里東顕寺なりと云ふは、もしその前のことにや、そもそもこの処に中野氏を置きしことは信直公斯波氏を御征伐の思し召し有りける事度々有りしよし『御当家秘書』に見へたり、その後寛文十二年(一六七二年)今の生姜丁の神明この処に鎮座なりしが、宝永三年(一七〇六年)より当社(松尾神社)鎮座なり」。

  新山の項には「今は橋下(註明治橋)の辺をすべていふなり、(中略)あんずるに『御当家秘書』に云、天正年中斯波氏攻めの時、郡山の斯波方高水寺等来て中野館を攻む、この加勢のために戦利あらずして日暮れに及びしかば、軍は明日とて新山寺ばかり残り、五六丁隔て小高の処に普請し、簗川を後に当敵城を乾(いぬい=北西)に見て向陣を取れり、今の新山館これなり、とあり、然ればこの川下の方に新山舘有りしより新山川原と云ならん云々」。

  現在東北銀行の事務センター所在地付近が新山舘跡とされ、同センターが建設される際に発掘調査がなされた経緯がある。

  小高の項には「この地は古戦場にて天正の頃斯波勢と不来方勢とこの処にて大せり合有りし由云々」とある。この説話の中に中世の戦争形態であったとされる「罵り合う戦争」「切取勝の勝負」が出てくる。基本的には『南部根元記』を原本としつつ、他に所在不明ながら中世を伝える史書が種本になっていることが垣間見える。


 


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