2005年 9月 5日 (月) 

       

■ 〈古都の鐘〉5 鈴木理恵 子供を教えて思う

K子ちゃんは4歳の女の子。日本人だがウィーンで生まれ、音楽家のお母様に連れられてしょっちゅうオペラ通いをというのだから末恐ろしい。初めて彼女に会ったときも、あるお宅の廊下をうつむき加減に腕組みして“ゴットサイダンク−神よ感謝いたす…”と、ゲーテさながら歩いているのだからわたしは目を丸くした。

  ひょんなことから彼女にピアノのレッスンをすることになり、びくびくしながらお宅の門をたたいたものである。なんでも音楽は好き−「サウンド・オブ・ミュージック」を歌って踊るのが得意−なのだが、前のピアノの先生に面倒な指練習をたくさん課せられて、すっかりピアノ嫌いになってしまったという。お母様のにこやかな応対とは裏腹に、ピアノのあるサロンに足を踏み入れた途端、事態は思ったより厳しい…と思わざるを得なかった。

  ピアノの下に傘を広げ、その下に毛布をかぶってストライキをしていたのである。わたしはさながらトラップ大佐の子供たちの家庭教師、マリアの気分。なにしろピアノの前に座って音を出してもらうまでになかなか行きつかない。制限時間30分は−彼女の集中力ギリギリの時間である−あっという間に過ぎ、第1ラウンドは彼女の1本勝ちとなった。こうしてわたしの苦闘の日々は始まったのである。

  まずはピアノを楽しいと感じてもらわなければ何事も始まらない。好きこそ物の上手なれである。やはりアメとムチだったら前者からだろうか。わたしはドレミの歌をごく簡単な楽譜にして持っていった。わたしとの連弾である。「K子ちゃん、ほら、これ知ってるでしょ?」と弾いてみせる。「K子、知ってる!」案の定、歌って踊って見せてくれる。

  終わりを待ってすかさず「ピアノで弾くとこうだよ」と手本を見せると、興味を示してピアノに寄ってきた。「ちょっとやってみない?」。するとわたしを押しのけてピアノに向かい弾こうとするではないか。しかし思うようにいかないのにイラ立ち、「やっぱりやだ!」とソファに寝ころがってしまった。

  が、ここでひるんではいけない!「ねえ、この音何の音かな?」鍵盤が見えないところにいるのをいいことに、耳で聴き取り歌わせるもくろみである。「ほら、始めの音はドだよ。次の音は何だろう。隣の音みたいだね」。「レ」。1回でできなかったというのが我慢ならないのだろうか、怒ったように叫ぶ。「じゃ、次は?」。「ミだよ!」。「じゃ、そのドレミはピアノのどこにあるの?」。

  来た来た。ソファからピアノにやって来た。ドの位置をそれとなく示すとドレミと弾いた。「よく分かったね!」。賞賛という名のアメである。こうして上のドまで行き着いた。ここでCDをかけ、それとともに合図を与えつつドレミ…と弾かせてみる。

  少々手こずったが、いつも歌と踊りで親しんでいた曲にピアノという可能性が加わってうれしかったのだろう。もう1回、もう1回とせがんだ。まだまだ手の形も指使いも音の質も難だらけ。−道は遠いが−とりあえず第一歩は踏み出せただろうか。今度はわたしが“ゴットサイダンク!”という番であった。

  教育とは忍耐なり、とはよく言ったものだ。相手の状態を見つつ−時にはトイレやおしゃべりに時間をとられようと−むやみに与えることを急がず、かつ効果的に、興味をひくように導いていく。それはなかなか簡単なことではない。

  しかし、一度功を奏したときは、こちらも天にも昇るほどうれしいものだ。そしてさらにおもしろいことは、わたし自身がピアノに向かうときである。経験がかくも生きてくる。弾くわたしとともにもう1人の自分、わたしを教えるわたしがそこにいるのを感ずるのである。  (ピアニスト/ウィーン在住)




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