■ 〈オークランドの旅人〜賢治と滝沢村〉152 岡澤敏男 種馬オーバーヤン
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■種馬オーバーヤン
岩手種馬所にはどんなアラブの種牡馬が繋養されていたのか関心がもたれる。
大正5年から14年の「馬匹一覧」(現在家畜改良センター岩手牧場所蔵)にみられる内国産アラブ牡(おす)馬は平均1〜2頭ずつ繋養されていて、その馬名をオーバーヤンとコハイランと呼んでいた。
特にオーバーヤンは優れた血統らしく、サラブレッド牝馬との交配によって産仔(さんし)するアングロアラブ種の繁殖には、主としてこの系統が用いられていることが「馬匹一覧」にうかがわれる。
これをもってオーバーヤンを直ちに「アラブの貴き種馬」と同一視するわけではないが、賢治が当時の種馬所の馬匹について知見があったとすれば間違いなくオーバーヤンをモデルとするはずだ。
サラブレッド種がほぼ10頭平均でアングロアラブ種がほぼ20頭平均に比べて、2頭平均のきわめて数少ないアラブ種はそれだけで貴い存在であり、しかも優れた血統を継ぐオーバーヤンだからこそ、賢治は「アラブの貴き種馬」と形容したのではあるまいか。
だが作品の中のアラブの種馬はいったいどこに向かっていたのだろう。この種馬をとりまく情景を「雪の火山の裾野原」と描いていることから、たぶん鹿角(津軽)街道の一本木原を通過中と推理される。しかも、「赭(あか)き柏(かしわ)を過ぎくれば」という詩章は「一本木野」や「鎔岩(ようがん)流」の詩にみられる柏の木立付近を思わせる。
しかし種馬がここから北を指すのか南下するのか今ひとつはっきりしない。北行なれば平館か荒沢種付所へ向かうと推理され、南下となれば種馬所(本厩)に向かうと考えられるのです。
大正11年当時の岩手種馬所には県内に34カ所の種付け所が設けられ、民有牝馬の種付けに供用していました。この種付け所は、民有牝馬所有者の種付け負担を軽減するために明治43年から制度化されたもので、岩手県は産馬地方が広域に分布するので34カ所に及んだのです。
しかし「種付所派遣種牡馬表」には荒沢・平館に派遣されたアラブ種牡馬の名前がまったく見当たらず、作品の種馬が種付け所へ派遣される北行ではないことは明らかです。
たぶんこの種馬は荒沢分厩から種馬所へ入所するため南下中の4歳馬だったのでしょう。「馬匹一覧綴」には、大正5年〜9年入所した4歳馬の内国産アラブ種牡馬に「オーバーヤン」の名前がたしかに載っていたのです。
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