2005年 9月 9日 (金)
■ 教え子たちは国を動かした 盛岡てがみ館で富田小一郎展
1939年6月3日、盛岡中学時代の教え子によって開かれた冨田への謝恩会
盛岡市中ノ橋通1丁目、プラザおでって内の盛岡てがみ館(八木橋哲男館長)で、企画展「冨田小一郎とその教え子たち〜日本一幸福な先生」が始まった。盛岡中学(現盛岡一高)時代の教え子からの手紙を中心に、恩師たる教師像を現代に問いかけている。来年1月9日まで。
冨田(1859〜1945)は本県女子教育の父と言われ、私立盛岡実践女学校を創設し、後に市立女子商業学校となった学校(現市立高校)の校長を務めた。盛岡中学在任中、後に活躍する多くの本県の先人を教えたことでも知られる。
教え子12人が添え書きした1941年2月22日のはがき
展示では冨田を前列中央にした集合写真が目を引く。1939年6月3日、東京の幸楽という料亭で盛岡中学時代の教え子によって開かれた謝恩会のときのもの。恩師を囲む教え子には、板垣征四郎陸相、米内光政海相、新聞記者から作家となった野村胡堂、言語学者金田一京助、財界の鹿島精一や郷古潔といった各界で活躍する顔ぶれが見られる。謝恩会は新聞で「日本一の謝恩会」の見出しで報じられ、今展タイトルにある「日本一幸福な先生」につながった。
冨田は卒業後も教え子たちの師であり続けた。功を上げ名を成したあとでも、厳しく律したエピソードは一つや二つではない。冨田の一方的な気持ちではなく、教え子たちも冨田を敬慕し続けた。
41年2月22日消印のはがきは教え子12人が添え書きし、冨田に出したもの。海相及川古志郎が官邸に中学時代の仲間を招き、宴席の中で書いたとみられる。田子、東部硫酸販売社長の川口秀基、早大野球部監督弓館芳夫、医学博士小野寺直助、野村らだ。
37年2月20日の手紙も郷古、米内、及川が車中で一緒になったことから、冨田に寄せ書きした。鉄道政務次官だった田子と建築家横濱勉のエアメールは、37年10月21日、ロンドンから出された。田中館愛橘と会い3人とも元気なことを伝えている。旧友が会えば、冨田の話になったことは想像に難くない。
同館の船越英恵学芸員は「教え子から見て厳しい先生だった。当時、今の教育は駄目、先生が生徒の機嫌ばかり取っていると言っていた。これに対して板垣は機嫌取りどころか厳しく、げんこつも飛んでくると語っている。そこに冨田の教育、人づくりへの思いがあると思う。この人間を立派に育てたいと思う愛情が厳しさになった。教え子を一人の人間とみて大きく育てようと真剣に一人ひとりと向き合った」と、教師冨田の姿を見る。
米内光政の冨田死去に寄せた弔文
「卒業しても先生と生徒の関係は終わることがない。直接の先生だったときの畏敬(いけい)の念が、卒業して次第に敬愛という気持ちに変わっていったのではないか」と解説する。
45年2月3日、冨田死去。訃報に触れた米内の弔文が展示されている。冨田は米内に海軍兵学校受験のため補習をし、授業料を滞納しなければならないほどだった米内家に授業料程度のお金を毎月援助していた。敗戦色が濃くなり、小磯内閣の海相で苦悩もあっただろう米内は、日付を1月と誤っている。恩師の訃報への動揺がうかがえるという。
石川啄木も盛岡中学2年のとき級担任で、04年の夏休み、三陸へ修学旅行に行っている。常設テーマ展「啄木をめぐる人々」では土岐善麿との関係にスポットを当てている。
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