幻の稲、亀の尾は偶発的な変異によってもたらされたものである。明治36年秋、山形県の農家、阿部亀治は稲刈りの始まった棚田を歩いていた。すると、偶然、倒伏して結実不良の稲の中で、倒れずに結実の良い稲穂(3本)を発見した。
それは泥沼の中に鮮やかに花咲くハスのようなものである。阿部亀治は田の所有者の了解を得て、その稲を持ち帰った。そのモミを大切に試験栽培し、3年後には当時の一反当たりの収量を一俵上回るほどの成果を得た。やがて、この新品種の名声は各地に広まった。
亀治によって作り出された稲であるから、彼の親友である太田頼吉はその新品種に「亀の尾」と名付けるように提案した。ところが亀治は清廉であり、謙遜する人であった。「尻尾」で良い旨、主張したのである。
このあたりの状況は、イギリス産業革命のアークライトとクロンプトンを想起させる。両者は先人の成果を取り入れてそれぞれ紡績機を発明した。前者は抜け目なく特許を取ったが、後者は取らず、窮乏生活を送った。亀治の態度はクロンプトンのそれに通じるものがある。稲の新品種には結局「亀の尾」の名が与えられた。
亀の尾の外観や香りは現在の一般的な米に近いといえよう。ご飯にすると、少し硬めで粘りも少ない。冷めると固くなりやすい。
けれども、当時としては食味、耐寒性、多収性ともずばぬけていた。自然の流れに乗って、明治末期までには山形県の約半数の田に栽培されるに至った。大正時代には日本三大品種の一つに数えられた。当然、山形県外の農家でも亀の尾を栽培する向きが増加した。亀治の功績を称えた頌徳碑を農業関係者が村の鎮守境内に建立したのは、昭和2年のことである。その3カ月後、亀治は61歳でみまかっている。
亀の尾の弱点は病害虫に弱いことである。そのため、品種改良が進み、亀の尾の交配された新品種が次々と生まれた。農林21号、ササニシキ、コシヒカリ、ホウネンワセなど、亀の尾の血を引く品種は食味の良い点で高い評価を得ている。
分家筋が栄える中で、本家本元の亀の尾は、昭和も戦後になると、ほとんど姿を消してしまった。けれども、人々を魅了してやまない酒米としての地位を保ち続けている。そこで各地の酒造メーカーなどによって、亀の尾の復活栽培が試みられた。その多くは早くもうけようとして目先のことばかり考えて飛びつき、欲求を先走りさせて失敗した。亀の尾はもともと人工で作ったものではなく、自然に作り出されたものを見つけ出したのである。
限られた田に押し込めるように過繁茂させると、日当たり、風通しとも悪く、一層、病害虫に弱くなる。無理のない栽培によってのみ、亀の尾は復活し、何ともいえない神々しい風景を田に現出したのである。その酒はやや甘口で、後味はすこぶるすっきりしている。
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