2005年 10月 6日 (木) 

       

■ 〈オークランドの旅人〜賢治と滝沢村〉156 岡澤敏男

 

■山頂で読経する賢治

  詩編「東岩手火山」は、賢治が農学校の生徒と登った岩手山頂での出来事を素材にした219行の作品です。


  『春と修羅』(第一集)のうち「小岩井農場」(591行)「青森挽歌」(252行)「真空溶媒」(248行)に次ぐ長い詩で、薬師火口の外輪山をめぐる火山風景や天文、気象などの華やかな知見をちりばめ、「海抜五千八百尺」山頂を舞台にした壮大なるオペレッタを演じているのです。

  賢治は、「お祭りより、オレと一緒に岩手山に登ろう。旧暦八月十五日は満月だから、この満月を岩手山頂から拝むと、ちょうどおわんのようなかっこうに見え、その中から仏さんが三体現れる」と同行した生徒(藤原健太郎)に語っています。

  「お祭り」とは町社鳥谷ヶ崎(とやがさき)神社の大祭(花巻まつり)のことで、17日から3日間は花巻の町内ばかりでなく近郷からも参詣者がどっと押し寄せる稗貫郡下でも有数の地方祭だったのです。
  18日(月曜日)は各学校、町会議員、役場吏員など神社参拝行事を行ったらしい。賢治らはこの大祭の17、18両日を利用して岩手登山を決行したものとみられます。

  この登山には6、7名の生徒も参加し藤原健太郎、小田島治衛、宮沢貫一、河村(川村)慶助の名は詩のなかにも登場させています。

  この詩は大正11年(1922年)9月18日という日付があり詩編「滝沢野」につづく作品とみられます。
  花巻を午後2時28分に発ち滝沢駅には午後3時52分に着き、分れ・一王子を経て約2里半の道をたどり柳沢に到着したのは午後5時半ころだったらしい。照井謹二郎(同行した生徒の一人)が「夕方岩手山登山口入口の民家で一休みした」と回想し、またその家のおばあさんに賢治がてんぷらを頼んで楽しく夕食をとったといいます。

  登山は6時ごろに開始され、6合目付近で小休止したとき「空は底ぬけに澄んでいてよく晴れ、満月だった」と照井は記憶しています。

  たしかに「岩手日報」9月17日気象欄には「九月十七日午後六時概況」として「高気圧は著しく発達し…天気は九州より北海道に亘り晴れ」と解説していました。

  そして18日午前3時ごろ、9合目の山小屋に着いてしばしの仮眠をとったあと、ひそかに山小屋を抜け出した賢治が、頂上近くで朗々と法華経を唱えているのを山小屋で藤原が耳にしていました。

  ■「花巻まつり」の新聞記事

  「昨十七日より祭典執行し、各町内にては山車人形、舞台踊、神楽、獅子、馬鹿囃子の他、興業者には菊人形その他活動写真、種々の珍無類の装飾を添えたる滑稽極まる飾り物等ある由、尚十七日午前十時よりは神輿樽の行列等もあり、氏子総代衆一同は行列に加はり、十八日には学校生徒、職員、町会議員各衛青年団員、役場吏員、各新聞支局員、町内有志等は鳥谷ヶ崎神社に参詣を為す由」
      (大正四年九月十八日「岩手日報」)
  「鳥谷ヶ崎神社の祭礼は予報の通り十七日より三日間行われる筈であるが第一日は近来稀なる快晴のこととて近郷近在からの人出が夥しく市中は身動きできぬほどの雑踏であった。それに山車が三つも引出されて午後三時から神社本殿から裏町なる御旅舎へ神輿の渡御があったこととて町内各街路は益々混雑したが、同町七青年団では各三名宛の人数を選抜し…消防組員と協同左側通行のの警備に当らしめたので終日何等の事故もなく夜に入って一層の賑わいを呈した」
(大正十一年九月十八日「岩手毎日新聞」)


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