■ 〈古文書を旅する〉83 工藤利悦 斯波方の諸士南部属徒 付岩清水合戦のこと1
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■斯波方之諸士南部属徒 付岩清水合戦のこと1
かくて大膳大夫信直公は威勢日を追って昌栄にして遠近従わざるは無かりけり、斯波の諸士も中野に語られ、あるいは南部の威勢に恐れて簗田・大ケ生・太田・小屋敷などをはじめ、各々心を寄せ傍輩は言うにおよばず、親子・兄弟までも互いに疑い起きて心を隔て、愈(いよいよ)君臣の仲むつまじからず。
これより斯波滅亡の前表なり。しかれば斯波御旗下に岩清水肥後、同右京と兄弟の者ありけるが、昔中野が斯波へ奉公となりし時、右京あまたの恩を受ければ、その報礼をせんと思いおりけるところに、中野輙(たやす)く南部へ属徒の心を出し、この由を小屋敷に語りければ、小屋敷打ち頷(うなず)き我も中野に厚恩の者なり、しかれば南部へ一味せんとて、すなわち高清寺左京・赤石藤十郎らと語りければ、赤石は聞きも合わず、さては小屋敷殿には我々が心を引き見ようとの御物語と覚えたり、いかに我々御所より勘気を蒙る(註1)とも重代の主君なれば争いか恨みたてまつらんや。定めて我々が野心あると思しめし御所より仰せにてしばらくは計りたまうべく候と言いければ、小屋敷が言う様、何にとて偽り申すべく、諏訪八幡も知りし召さんと神に誓って言いければ、高清寺左京はしからば小屋敷とは往年男色の知音なりしが、小屋敷の顔を熟々見て涙を流し申す様、我こそ年劣りの身なれば不義無礼の事あるは御異見あるべく、御身にて諜逆人と与力をし、某に一味して名を流せとの仰せかや、縦令(たとえ)貴辺はともかくも、それがしにおいては叶うまじ、あさましき御心や、この世の対面これまでと居りたる座敷をつっと立ち、一間の所へ引き籠り自害して失せいぬ。
その後赤石をいろいろ説かれけれどもさらに承引せず、昔を引きて押えければ両人大いに怒り、去年御所より汝を切るべきに決まりしに、我々が申しての許し故、預かりの身となりて命をまでは存ぜぬ、なんじ一人にかくと思い立ちてこの事の飜(ひるがえ)すべき事やある、かようの者をそのまま置くは他所へ漏れんと言うも果たす太刀を抜きエィと指し殺し、疾く思い究めつつ本望を達すべくと、この旨を右京に告げれば、岩清水は聞も合わせで小勢にていかがなり、兄肥後をも語り一所に功を成さんと、かくつかまつる、この上は事延引しては叶うまじ、右京は急ぎ肥後が宿所に行き、膝下近く座を組みてひそかに呟きければ、頃日斯波諸士の体何と思し召したまうぞ、もはや斯波の威勢なし滅亡近からん、萬成敗宜しからず、昼夜酒淫にひたりたまうぞ、政事を邪(よこしま)にして少の科(とが)にも身帯切腹に及ぶ、また忠節を尽せども恩賞もなし、萬頼み少なき旧主なれば家従恨まざるはなし。
これによって頃日は大方南部へ内通し、糠部の出馬を待ち居りと沙汰ありぬ。就きてはそれ、我兄弟急ぎ南部へ属するにおいては、本領相違なきように信直へ取り持たんと、頃日不来方の中野よりそれがしまで言い来たりぬ。この儀何とか思し召され候や、言うが終わらぬに肥後顔色大いに変わりて言う様、さては汝は中野に語られ、南部へ一味しけるよな、中野もなんじが底意を知りてこそ、兄弟一所にありながら、なんじへは言い越しぬ。中野は智謀の者なればこの事は遂げざるとも兄弟不和とならしめて同士討たさせべき計策なり、それを誠と心得て我々に告げるよな、あさましき心底や、いかほど行くすえ悲しくとも主君に向かって弓を彎(ひか)んや、それ糠部へ降参し恩賞に預かるとも天道は許したまうまじ、生きては人に指を指され死しては子孫に恥を与え、先祖代々の家名を汚さん事人倫の業にあらず、この事においては思い止まり候へと一度は恨み、一度は怒り口説きけれども、重(かさね)て右京が申す様、仰せは一理候えども、一旦敵へ降りつつ命を全うし、家名を長く続かん事これ武士の願う所なり。その昔より闇を捨てて明を取るは聖賢のなすところ。全く人倫の恥辱にあらず。今斯波の御家運既に傾き尽きて風前の燈に似たり。しかるを何の思慮もなく、かく打ち過ぎたまうこといかなる御心底に候や。殊に斯波御家も譜代相伝の主君にもあらず、五條殿の御子この所へ下りたまう時、先祖御旗下に属したてまつりしにこそ君臣の如くに候とも、かく申すも後すえよき様と兄弟なれば悲しくて御為を存じ計りたり。中野へも既に返事つかまつれば、縦(たとえ)勘当を蒙るとも今さら変易なり難し。この儀においてはぜひ御同心候えと言いければ、肥後弥々腹に置(すえ)かね言う様、なんじが弟なれば親の譲りも相続し、一城の主なれば兄ながらそれがしがなんじが手にて斯波殿の御身の上何事も出来なば、兄弟潔よく働せんと聞かなば悦(うれし)かるべきに、主君へ謀叛せよとの諌よな、なんじが様成る愚人めに言うも無益なりと思ひども、主のゆかりを語り聞くべし。(つづく)(「祐清私記乾」)
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註1 斯波氏の糠部出陣を諫めた高清寺左京・赤石藤十郎が反逆者とされ、死一等を減ぜられて小屋敷修理は預けられていた。(七十八話)その小屋敷修理が高清寺左京・赤石藤十郎に謀叛を持ちかけた。
【解説】ここでは再び天正十六年(一五八八年)斯波氏が滅亡する前夜の話に戻る。
内容は『南部根元記』「志和没落之事」をベースにして大分増幅されているが、あらまし次の通りである。
高田吉兵衛は志和から糠部へ走った後、中野館を預けられて斯波氏領攻略の主命を帯びる。このとき親交のあった重臣簗田中務や大ケ生玄蕃をはじめ小屋敷修理や岩清水右京らに語らい、徐々にその勢力を拡幅する。
斯波氏はこれを怒り、糠部侵攻を計るが、高清寺右京・赤石藤十郎らが無謀を主張していさめる。赤石らは反逆罪に問われ、死罪を申し渡されるが、謝罪嘆願をする者たちがあり、死一等を減じられて小屋敷修理に御預けとなった。
その高清寺氏・赤石氏らに、こともあろうか小屋敷修理より斯波家への謀叛を打ち明けられる。高清寺氏は小屋敷修理との親交もあり悩むが、忠義の道を選んで自害して果てる。
一方、赤石氏も忠義を論じて応ぜず、謀叛が露顕することを恐れた小屋敷修理は一挙に刺し殺してしまう。岩清水右京は兄肥後の許に出向き、南部家への帰降を勧めるが、逆に忠義の道を諭される。
しかして中野氏の謀略は奏功し、斯波家中の主従関係は半ば崩壊し、疑心暗鬼のるつぼと化していた。
斯波氏を評して「昼夜酒淫に耽(ひた)りたまうぞ、政事を邪にして少の科(とが)にも身帯切服に及ぶ、又忠節を尽せども恩賞もなし、萬頼すくなき旧主なれば家従恨まざるはなし」とある。
この手の表現は勝者が敗者を名指しして言う時の常套(とう)語。さして意味がない表現であると考えるが、次の回に斯波氏の家系と岩清水氏の関係について岩清水肥後の口から語られる。およそ百年間仕えた主家斯波家に対して弟右京の口を借りて「殊に斯波御家も譜代相伝の主君にも有らず云々」と反論させる『祐清私記』の著者伊藤祐清の真意は何なのであろうか。
推しはかるところ、「祐清私記」を通覧すれば、著者は譜代意識の強い人物であった。斯波家における岩清水氏の立場を、南部家の例に置き換えれば、甲州から光行を出迎えた三戸の地侍(三戸譜代)に通じる立場。
岩清水兄弟の会話では光行に従って糠部に入ったと伝えられる甲州譜代以外は譜代でないと言わせているようなものである。まして著者の家は譜代の列にあるものの天正十八年(一五九〇年)に滅亡した稗貫氏旧臣の家柄。譜代の範ちゅうを広げているが、多分に重直が嗣子に恵まれず、堀田家(勝直)より養嗣子を迎えたことを意識した譜代論のように感じる。
たまたま勝直が夭死し重信が相続したから、斯波家中の話で納まっているものの、仮に勝直が相続していれば、「我等には譜代相伝の主君にも有らず」と言いかねない含みを感じるのは邪推であろうか。
■小屋舗氏の末裔『参考諸家系図』
小屋舗系図は小屋舗修理長義の譜を「志和郡主斯波家譜代の臣なり、同郡小屋舗村を領して氏とす、天正十六年秋主家の没落に従って浪士となり花巻に隠る、利直公慶長中花巻郡代北松斉信愛に召し出され、地方百五十石を領す、後利直公召し出され、旧地小屋舗村に二百石を賜ふ」。その子金右衛門某の譜は「利直公の時、公子彦九郎政直君に花巻に仕て五十石を領す」とあり、子孫は花巻御給人になったとあるが、途中で断絶。家名は修理長義の二男小屋舗清兵衛義景の家系が連綿と相続した。
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