GHQは、戦後直ちに旧軍部の言論抑圧を排除する措置を講じました。新聞・雑誌の発行が自由となり、急速に増加する出版物に用紙不足が深刻でした。
昭和21年11月以降の配給用紙は、日刊新聞で「ペラ一枚」つまり表裏2ページ分だけ、雑誌は月刊のB5判で32ページから48ページまでの間と制限されました。
昭和16年5月設立の「日本出版配給株式会社」はこの時まだ機能しており、出版物の奥付けには検閲を経た旨を明記しなければなりませんでした。
昭和21年12月、大阪の誠光社から、古典芸能研究誌『文楽』(A5判・32ページ)が創刊されました。
さすが大阪、配紙割当の規制を利用して、表紙にざら紙6ページ分に相当するケント紙を使い、グラ
ビアに10ページ分のアート紙、本文に32ページ分のざら紙、合わせて48ページになるよう合理的に編集してみせるのです。
この時敗戦のちまたには軟派雑誌といわれる、いわゆるカストリ雑誌がはんらんしていました。その敗退的風潮を憂慮する大阪の文楽愛好家らが、日本の伝統文化を守ろうと創刊したものです。
編集後記は「文楽の人形浄瑠璃が、日本に現存する多くの古典芸術の中で、どんな位置を占めているかということは今更いうまでもないが…(略)もっと広い意味の古典芸能研究誌として、唯それが大阪から発行されるという意味の象徴として、『文楽』の名を選んだものである」と述べるのです。
そこで文楽の位置ということについて三宅周太郎「日本の文楽」は「…(略)能楽は《日本の能楽》になっているが、文楽は今悲境の底にいる。それは大阪だけの文楽であって、能楽のように《日本の文楽》になっていないからだ」と、厳しく指摘するのです。
でも、グラビアに載る「文楽首(かしら)」の娘は怪しくも美しく、これに吉井勇の和歌が添えられて文楽独特の世界が醸し出されるのです。グラビアには初代吉田栄三のありし日の面影も載せてしのびます。
この年3月、食べ物の恨みから、歌舞伎俳優の片岡二左衛門一家が殺害される事件がありました。犯人は片岡家の子守娘の兄で復員後住み込み、日ごろ食事で差別を受けていたと、自分の妹までも殺しました。
敗戦による欠乏と飢えで人々の心はすさんでいましたが、日本の伝統文化に心の糧を求め、懸命に生きる日本人も多くいたのです。 (毎週日曜日掲載)
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