■ 〈たきびの詩人巽聖歌〉170 小川達雄 2.26事件と歌人22
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この七月十二日、読売新聞の一面トップには、「2・26将校ら17人遺書」のゴシック体横見出しが躍っていた。その時処刑された青年将校十七人の遺書四十五枚が、六十九年ぶりに発見されたというのである。
その遺書にはこう記されていた。
「大君に 御国思ひて 斃れける 若き
男乃子の心捧げん 栗原安秀中尉
刀折れ矢玉もつきぬ今はただ 名こそ惜
しみて行かまほしけれ 入所中ノ御厚情
ヲ深謝シ奉ル 只吾人ノ真精神ハ兄等ノ
ミゾ知ル
昭和十一年七月八日
花淵錦虹大兄 陸軍歩兵中尉 丹生誠忠
国の為よゝぎの露と消るとも 天よりわ
れは国を守らん
大御心雲さいぎりて民枯る 死しても吾
は雲をはらわん
昭和十一年七月七日 水上源一
為花淵氏 」
この遺書について、13付同紙には、無期禁固刑に処せられた麦屋清済氏(九十五才)の次の談話が掲載されていた。
「事件を美化しようという気はない。た
だ、国民が苦しんでいたあの時代に、我
々は立ち上がるしかなかった。戦後生ま
れの人には、その気持ちは分からないで
しょう」
なんとまあ。青年将校たちの遺書は、その時のものとして、いまはどうということともないのに。ただわたしは、「国の為よゝぎの露と消るとも」などの辞世の歌に、吉田松蔭の次の辞世の歌を思い出した。
身はたとひ武蔵の野辺に朽つるとも
留めおかまし大和魂
青年将校たちと松蔭の発想とは、どこか類似があるようだ。それは大きな身振り、自己犠牲を厭わぬという思い、悲劇的な自己満足、大きな空想性、等々である。
麦屋元少尉は「国民が苦しんでいたあの時代に、我々は立ち上がるしかなかった」という。しかしその結果、軍事政権が誕生して戒厳令下の社会となったら、一体日本は、どうなったであろう?
戦時中、国民は極度の食糧不足に苦しんだが、それはなによりも膨大な兵員に多くの食糧を回したから、兵員確保のため食糧生産の人手が足らなかったからであろう。原爆が落ちて後、ようやく日本は降伏に踏み切ったが、陸軍はなお本土決戦を呼号して、クーデターを起こしかけていたではないか。軍隊が強すぎては困るのだ。
もう二・二六事件の後、七十年が過ぎようというのに、まだその時の夢想のまま、化石のように生きている人がいる。わたしはそのことに一驚した。
そういえば、これまでにも記したが、多くの歌人たちが陥ったような、名前だけの戒厳司令官に、ひたすら涙を流したり、空疎な蹶起趣意書に感激してみたりなど、その時だけの安易な感情に流されることは避けたいものだ。巽先生のようにごくしぜんな、中庸を得た見方のなかにいたい−と、しきりにわたしは考えるのである。
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