2005年 10月 14日 (金) 

       

■ 古文書を旅する 84 工藤利悦 逆臣の弟、忠義の兄、それぞれの葛藤

  ■斯波方之諸士南部属徒 付岩清水合戦之事2
 
  そもそも斯波の御家と申すは足利尊氏一族にて越前の住人斯波尾張守高経(足利とも名乗り入道して道朝と言う)新田左中将義貞を討ちたる功によって、その一族奥州の地において数郡を恩賞に分けたまう。

  高経の弟斯波左京大夫家兼は大崎殿左衞門尉・最上殿出羽守等の祖なり、高経の子を斯波陸奥守家長と言い、これ当家の祖なり。家長、すなわち斯波郡(紫波郡)を賜りて、後光厳院の御幸延文年中(一三五六〜六二)このところへ下りたまいぬ。

  そのとき、それがしらの先祖岩清水道善戒禅門、子供を具(とも)して稗貫の境まで出迎え、まず家長を岩清水の館に入れ奉り、しばしこのところに御座すゆえ、その頃岩清水の御所とも申し候。それより高水寺の古館へ屋形を造営して移し奉る。

  家長この所へ御下りなき以前は、京都にて五條何某の烏帽子(えぼし)子となり、五七の桐、十六葉菊の紋を賜り、今に伝えたまうなり。家長下向の時、簗田・大成厳寺(大庄厳寺・明治年中廃寺)・源正寺(源勝寺)などを始め、主従十一騎にて下りありしとかや。

  それより代々斯波の御所と仰せ奉り、既に当御所まで七代君臣の儀を結び、不肖のそれがしらに賞禄を厚く加えられ、妻子眷属(けんぞく)まで心のままに養育し、安楽に住まいすること誰殿の御恩ぞや。安き時は随へ、危時は叛(そむく)は君臣とは申さずと言う。

  闇を捨てて明を取ると言うは異国の事なり。それ本朝の掟(おきて)は、君がために親を背き、子を害し、兄弟敵味方と引き分かれ、互いに切りつ切られつ争戦に及ぶ。それ不幸とは言わず、仮りにも主人へ弓を彎(ひく)者こそ逆臣とは申すなり。この儀止むまじくば兄弟対面これまでなり、汝敵に降参し千万年も栄えよかし。われらにおいては二張の弓をは引くべからず、実に幻の夢の世に幾ばくか命の存ろうべき。鳴呼(ああ)あさましき形勢ぞや、疾くその座を立たれよと大いに怒り詞を発しければ、右京さすがに本意なく思い、物をも言わず赤面し、すごすごと立ち出で、家へも帰らず。岩清水の居館へ行き、郎等どもを召し集め、いよいよの子細にて兄の勘当をこうむりたり。定めて肥後殿は御所へ披露せられなん、しかれば時日を移さず討手の勢は向かうべく、今はこれまでに及ばずなり、一矢を射懸けて潔く腹切らん、汝らは何れの国へも落ち行きて身命を扶くべく、又年来の好みを思い籠城の輩はわれと一所に討死せよと言いければ、兵ども聞き合わせでいかほど命を惜しむとも日ごろの御恩を忘るべくや、一大事を余所(よそ)に見てどの地へ落ち失い申すべく、唯御一所に討死し、名を残さんと諸兵一同に言いければ、右京大いに喜びしからば用意つかまつれ、打ち解けおる兵どもと太刀・刀と馬物具を取りそろえて寄手を今やと待ちいたり。

  この事を聞き伝え小屋敷も手勢を引き連れて籠城す。そのほか煙山・宮手・傳法寺を始め、ひそかに兵を遣し岩清水に加勢すれば、くっきょうの兵十三騎、雑兵合わせて四十余人と聞こえし。

  既に夕陽暮れて西山に傾けば最早討手も向かうまじ、定めて明けなば寄り来らん、明日の勝敗をは知らず、今宵限りの命なり、去来(いざ)や酒宴を設けて慰めんとて、乱舞遊曲の戯(たわむれ)実に面白くこぞ見えにけれ。

  さるほどに肥後は急ぎ御所へ参り申し上げるは、それがしが弟右京めが頃日中野に語られ、南部へ一味つかまつり、いよいよの事ども申すに付き、大いに恥しめ候えば、物をも言わず座を立ちぬ。定めて思い留ましき様子なれば、心元なく存じ急ぎ人を遣しが宿所の躰を見なしければ、人一人もなしと申す。

  果して居城に籠りぬ。勢い付かぬその先に早速御退治しかるべく、人手に懸けんも無念なり、御勢を副えられよ、それがしはせ向かいて腹切らせんと言いければ、御所聞こし召され、敵は弟なり、訴人は兄、汝とても信じがたし。

  もし我を賺(すか)して言うならば速かに手に懸けて南部へ降参つかまつれ、天運の至る処なり、全く汝に恨みなし、かく譜代相傳の者どもが我を見捨るのみならず、弓彎(ひか)んとすること斯波減亡の瑞相なりと心細気にのたまえば、肥後は聞き敢えず言う。甲斐なき仰せかな、左様に疑いたまうゆえ、この頃簗田大学も御勘気を蒙り引き籠りぬ。

  これによって家従互に狐疑の心を懐き、忠勤を励む者なし。縦令(たとえ)自餘の者は左も右も、この肥後においては野心を含むべきとは存ぜず、もし左(右か)京そのまま差し置かせられなば逆臣多く出で来たり、ゆゆしき御大事後に来たる。見せしめのため急度征伐遂げられよ、今日は暮れに至りぬ明日早々討手遣わされしかるべくと申し上げれば、左も右も汝よろしく斗(はから)へと三百餘の軍勢を賜はりけり。

  しかるところに外より侍一人馳せ来り、小屋敷逆心の思い立ち、高清寺・赤石両人を披露もなく切り殺し、その身は岩清水といふ所に岩清水之城へ籠り、その用意これある由、もっぱら沙汰仕り候と言いけるところへ、斥候の侍馳せ来り、岩清水の民屋はことごとく焼亡と告げれば、肥後この由を承り、それは城の大事には有るべからず、謀叛の色を見んためか、左なくば不来方へ知らせんための相図ならん、今宵の内に馳せ向かいたく思えども、人馬の足場おぼつかなく、明けなば城へ押し寄せて一々に腹切らんと急ぎ御所を退き出で、終夜その用意をつかまつりけり、誠に由々しく見得にけり。
  かくて高水寺の御所には小勢なれば守りがたくと領内の諸士に触れられ、軍勢を催促す、何れも御請をは申しながら領所へ楯籠り一人も来たらず、さて又紫波郡四拾八郷と申せ共、段々南部へ切り取られ、ようよう四十郷ばかりもありければ、その内の領主・館主に至るまで百余人はあるべきに一人も来たらずば、既に天運の究むるところな、よって肥後は明日辰の刻(午前八時ごろ)に、手数かれこれ三百餘を引率し岩清水の城へ馳せ向かう。
(「祐清私記乾」)

  【解説】冒頭は岩清水肥後が弟右京を諭すかたちで斯波家の沿革、岩清水家の忠義などを語る。かつて百年程前、岩清水氏の先祖斯波氏が志和郡に入るとき、稗貫郡の境まで出迎え、我が館・岩清水館に迎え入れ、高水寺城築城までの期間、岩清水館を斯波氏の居館とした経緯から岩清水御所と称した。(斯波氏の系譜は極めて諸説錯綜している。第三十六話を参照されたい)

  継いで兄弟の置かれる立場と現実のはざまで、それぞれの心の葛藤を綴り、弟右京が岩清水館に立て籠る話に移る。

  中盤では兄肥後の主家立てと、家臣の離反に苛まれ人間不信に陥っている斯波氏の心痛が語られている。後半は場面が変わり、右京は居館岩清水館に戻り、家臣らに自分の気持ちを打ち明け、これに同調した家臣等は篭城を決意し敵軍の到来に備える。逆臣岩清水右京と、忠義に徹する主従関係が際立つ。

  近隣の小屋敷の外煙山・宮手・傳法寺の加勢が到来、今宵限りの命として気炎を挙げる。夜があけて見ると兄肥後が指揮する追討の軍勢三百余騎が岩清水館に向け行軍していることを知る。

  ■岩清水氏のその後
  『参考諸家系図』岩清水系図は岩清水右京義教の譜に「先祖岩清水某は山城国男山岩清水(京都府)の人なり、以て氏とす、志和郡に来て某の時から代々斯波氏の臣となり志和郡岩清水村并傍村に八百石を領して岩清水舘に居す」、さらに「信直公天正十六年斯波氏没落の時帰降す、かつ功ありて旧地岩清水等に千石を賜う」と続く。

  『南部根元記』は「されども古主に弓引き兄に背きたるゆへにや、利直公の御代になりて御心に背き、終に大ヶ生の城にして切腹し一跡永く亡びにけり」と因果応報を説く。

  しかしこれには若干誤解があるらしい。九戸一揆には三戸方として出陣したことが知られている(『聞老遺事』)。再び『参考諸家系図』に戻る。

  その子蔵人義因の譜には「この時禄を失ふて花巻に住す、利直公慶長中郡代北松斉信愛に召出され禄若干を領す、慶長六年春岩崎御陣に従て戦死す」。

  『奥南落穂集』「和賀家の次第」には「慶長六年春出馬の処、和賀川水増し渡るべき便なき時、降参江釣子周防吉久先陣により諸軍競ひ攻め戦ひ、寄手の内にも乙部長左衛門吉形、今渕半九郎政慶、岩清水蔵人義國討死す云々」と散見す。

  蔵人義國の後は花巻御給人として連綿相続した。

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