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秋田県北の中心都市である大館市の東隣に比内という町がある。
その町の東はずれに神明社という古い神社があり、その境内には樹齢数百年の杉の大木が立ち並んでおり、南側を通る旧国道103号線(大館〜十和田湖子の口間)から北に望見できる。
この神社の境内が、薩摩・長州両藩を中心とする西軍と、仙台藩を盟主とする奥羽越列藩同盟軍が、東北の覇権を争って戦った戊辰戦争において、西軍側についた秋田久保田藩と同盟側盛岡藩との戦いで、最大の激戦として今に伝わる扇田合戦のあった場所であり、境内の老杉の幹には撃ち込まれた当時の銃弾が残っているそうである。
東北における戊辰戦争は、薩摩・長州両藩が会津・庄内両藩に対する私的報復を果たすため、新政府の名において東北諸藩に発した会津・庄内両藩の討伐命令に端を発し、その命令に従った久保田藩の第1次庄内侵攻を皮切りに、南は福島県白河から北は青森県野辺地までの広い地域で戦われた。南東北では白河城争奪戦、二本松城攻城戦、会津若松鶴が城攻城戦が有名である。北東北では西軍側についた久保田藩領内の大半が戦場になり、遠くは九州の藩を含め18藩の兵が参戦し、9月25日の同盟側盛岡藩の降伏によって終わるまで、久保田藩の450人を筆頭に、東西両軍で1300人以上の戦死者を出している。
秋田戦線では久保田藩に次いで多くの戦死者を出しているのは庄内藩であるが、それでも久保田藩の半分以下の166人であるから、いかに久保田藩の犠牲が大きかったかが分かろう。
■久保田藩の去就を決めたもの
東北全土を戦乱に巻き込んだこの戊辰戦争で、久保田藩は福島三春藩などと同じように、戦争初期の段階で奥羽越列藩同盟を離脱し西軍側についている。
そのため南から仙台藩・庄内藩、東からは盛岡藩から攻めたてられ、人的にも経済的にも大きな被害をこうむった。
久保田藩が仙台藩を中心とする東北の大勢に同せず、薩長側についた理由についてはいろいろな説がある。まずこれより200年以上も前、豊臣秀吉の遺臣石田三成と徳川家康との間で戦われた、いわゆる天下分け目の関が原の戦いの後、徳川家康によって佐竹家が秋田に移封されたことに対する、佐竹一族一藩の徳川幕府に対する怨念(おんねん)説。
秋田出身の国学者平田篤胤(あつたね)の思想をバックにした尊皇複古運動説。
薩長側につくか奥羽越列藩同盟側につくか迷っていた久保田藩を、追い詰め決断させるため、久保田藩士を教唆(きょうさ)し、久保田藩を説得するため当時秋田に来ていた、奥羽越列藩同盟の盟主である仙台藩の使者を暗殺(注1)させた、薩摩藩出身の策士総督府大山参謀(注2)の策謀説。
船舶を利用すれば、薩長など西国軍の遠征(応援)が容易であり(実際に戊辰戦争において、イギリスをはじめとする諸外国の船会社が薩長や佐賀兵の北越・東北侵攻で稼いでいる)、その半面隣接の庄内・盛岡両藩からの応援あるいは遠征が、陸路山越えで困難であることを考えた状況判断説。
西軍いわゆる薩長藩閥政府東北派遣軍の沢奥羽鎮撫副総督、さらには後になっての九条鎭撫(ちんぶ)総督の秋田入りに伴う成り行き説などである。
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【注1】仙台藩士暗殺
奥羽越列藩同盟の盟約を守るか、西軍薩長側につくか、藩論が定まらなかった久保田藩を薩長側加担に踏み切らせるため、総督府大山参謀が、この当時藩上層部の中心を占めていた佐幕派の暗殺を図っていた親薩長派の矛先を、久保田藩の盟約遵守(じゅんしゅ)を確かめるため、当時秋田に滞在していた仙台藩の使者7人の暗殺へと教唆誘導した。その際盛岡藩の卒一人が巻き添えになって殺されている。
これにより久保田藩は、後戻りできない「ルビコンを渡らせられた」わけであるが、東北戊辰戦史に残る最大の汚点と言われている。
【注2】大山参謀
薩摩出身大山格之助。戊辰戦争秋田戦線における西軍の事実上の最高指揮官であった。後に鹿児島県令(知事)になり、日本最後の内戦である明治10年の西南戦争の際、敗者西郷軍に加担し処刑された。(旧盛岡藩士桑田元理事長)
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