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真相は今になっては想像する以外にはないが、記録に残されている当時の状況や、伝承などによって考えてみることにする。
もちろんそれらの記録や伝承は、主として結果としての事件そのものを伝えているにすぎない場合が多いので、その事件などの根にあるものや、事件相互の関係などについては、状況証拠による推論と、想像によらざるを得ないことが多いのは当然である。
関が原の戦いの後の秋田移封に対する佐竹一族一藩の怨念(おんねん)説はわきにおくとして、まず庄内攻撃の総司令官(名目的ではあるが)として薩長兵を率いて新庄にいた沢副総督が、周辺の情勢から進退に窮まり秋田入りをしようとした際、秋田久保田藩はその受け入れによって、自藩の向背が明らかになるとして渋っており、また受け入れた後も、秋田滞在を迷惑がって弘前に送り出そうとしていろいろ画策していること。
そして沢副総督の方も、秋田入りをしたものの久保田藩を頼りにならずと見限り、早々に秋田を去り弘前に行こうとしたこと。そして弘前藩の拒否的な態度から弘前入りを果たせなかった後も、久保田藩に身柄を拘束されることを恐れ、秋田に戻らず船便を考えれば進退に便利な能代に滞在して様子を見ていること。このことは当時の久保田藩の姿勢が日和見的であったことを示していると言える。
もっともこの時点では、鳥羽伏見で始まった戦争が、徳川幕府側が勝つのか薩長側が勝つのか全く分からなかったわけで、久保田藩の態度も止むを得ないものであろう。
平田篤胤の思想は、後年薩長藩閥政府によって国家神道の確立に利用されたが、政治的には現状維持の考えで、封建幕藩体制を抜本的に変革しようというものではなく討幕の考えはなかったこと。またその影響の範囲は主として平田国学の信奉者である神官や富農層であり、藩上層部がその思想によって動いた形跡はないこと。
本格的に戦争が始まる前の4月、薩長藩閥政府の強要と総督府参謀の指揮督戦により、やむを得ず庄内藩領に出兵したものの、手痛い敗戦をこうむり、自軍の士気・装備・指揮用兵に自信を失い、庄内軍に対し恐れをなしていたこと。
ただし、その敗戦は久保田藩の将兵がとくに弱かったせいではない。恭順している庄内藩に対する攻撃の名分が不明瞭なことが士気に影響し、また前出の薩摩出身の総督府大山参謀などの久保田軍の作戦用兵に対する介入が、指揮命令系統の混乱や現場指揮官の反発を招いたことも一因であり、そして一番大きなことは、戊辰戦争当時の庄内軍は、士気・装備・練度などあらゆる点で東北地方最強の軍団であったためである。
盛岡藩が敵に回るとは全く考えていなかったこと。(従って8月10日の盛岡軍の鹿角口侵攻は久保田藩にとって全く予想していなかった奇襲攻撃であった)
これはとくに強調しておきたいことであるが、久保田藩およびその関係者は開国には終始反対で、薩長が倒幕のための手段として唱えていた攘夷(じょうい)論を信じきっていて、薩長が政権奪取後に公然化した開国の方針に対し、騙(だま)されたとして強く反発していること。
尊皇攘夷の本家である水戸藩は別にして、主として西国諸藩が中心であった尊皇攘夷倒幕運動にかかわりが少なかった久保田藩であり、いくら正確な情報の伝達が困難な時代であったにせよ、尊皇複古・攘夷=正義、徳川幕府・開国=悪という図式を信じきっていたとは思われないことなどから考えると、いくつかの理由が組み合わさったものであるにせよ、中心は状況による「成り行き」であったのではないだろうか。
ただし、久保田藩が旗幟(きし)を明らかにせざるを得なかった直接のきっかけは、前に書いた総督府参謀大山格之助の策謀による、仙台藩使者の暗殺であったことは確かである。
しかし“成り行きに至った条件”として、2月上旬にあった権謀公卿(くぎょう)岩倉具視の秋田久保田藩への内勅、沢副総督の薩長兵を連れての秋田転陣、さらには九条鎮撫(ちんぶ)総督の海路帰京を理由とした秋田入り、そして戦後久保田藩に対する手のひらを返したような冷淡な仕打ちなどを考え合わせれば、薩長関係者が奥羽越列藩同盟から離脱させる対象として、東北の拠点としての秋田の地理的位置や海運の便、そして藩論の動向などいろいろな条件を考慮して、当初から意図的に久保田藩を狙ったとも考えられなくもない。
(旧盛岡藩士桑田元理事長)
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