2005年 11月 4日 (金) 

       

■ 〈古文書を旅する〉87 工藤利悦 斯波殿再び不来方を攻める

  ■斯波殿再び不来方を攻める 付斯波没落のこと(その2)
 
  さて信直公それより斯波へ進発して、そのために中野館と古中野館との間なる清川(今の中津川とも言う)広野にて御勢を御上へ寄せ、貝を吹かせ経が森へ狼煙(のろし)を揚げさせたまえば、見聞伝え聞き、岩手・閉伊は言うにおよばず、斯波方の軍勢も雲霞(うんか)のごとく馳(は)せ集まり、いずれも降参を乞(こ)いければ、その勢既に七百余騎に及べり。

  斯波方の斥候この由を見て、稲藤大炊左衛門に対面し、いよいよと語りかければ、稲藤急ぎ御所に出て告げていわく、もはや南部は不来方の城を出て経が森の辺(ほとり)に群がり、すでに北上川を進まんとす。定めて今日の内に寄せ来たらん。敵は千騎もあらん。味方はようやく五十人には過ぐべからず。日頃は五百騎もあらんと存ずれ、左はなくともせめて百騎もあらば一方をば堅めべく、敵の大軍に恐れけん、あるいは落失または引きこもり、日頃の恩禄を忘れ、味方つかまつる者は一人も見えず。とにかく敵を防がんこと、この手にてはなかなかかなうべからず。ひっきょう未練に敗北せんよりはひとまずいずこへも落ちさせ、一旦の害を遁(のが)れて時を待ち、変に従ってこの恥辱を雪(そそ)がれしかるべくと申しければ、御所いよいよ惘(あきれ)て、せめて八左衞門(側近の一人御所八左衞門か、この当時病死か、不在の理由不明)あるならばひと防ぎは戦わんに、矢の一筋も射懸けずにして、をめをめと城を明けて落ちんことも無念なり。また城を守りて防戦も小勢なればかなうまじ、頑節を待つべし、先ず落つべし、長岡にも一揆起り斯波の下知を背きぬ。西は岩清水・煙山等居館を並べて支えぬ、洩れて出ずべく様もなし、如何せんと時刻を移されける程に、奥勢(糠部軍)すでに陣ケ岡まで襲い来ると告ぐる者あれば、御所大いに周章(うろたえ)ながら稲藤大炊左衞門・草刈藤助・櫻町越前・日詰何某、彼是(かれこれ)主従六、七人にて山伝いに南(西か)を指して落ちたまえば、年来久しき領主なれば、志ある地下人ども思い思いに付き従いけり。また落人と聞きて財宝をかすめ取らんと、御所ども今は言わせばこそ矢を射懸ける者あり。それよりようよう稲荷別当成就院を頼り、しばらくここに隠居したまえしか、世を忘れてそれより西の川上なる山王海と言うところへ落ちられけると後にこそ聞くべし。

  誠に盛者必衰とさりながら、定め無くは浮世なり。往昔人皇九十九代光巌院の御字、延文年中(一三五六−六一)斯波前陸奥守源家長、斯波郡領主となりこのところへ下向(始め岩清水館に着し、後ち高水寺に住す)せられしより以来、代々御所と号し、この御所民部大夫まで既に七代(あるいは九代ともいう)と年数わずかに二百三十年にして斯波の家この時滅亡せり。

  誠に天運の至るところ力及ばずとは言いながら、後世これを鑑(かがみ)とすべし。

  さる程に大膳大夫信直公高水寺の辺(ほとり)まで寄せたまえども、敵するもの一人もなく降る者数多し、すでに陣ケ岡に御勢を向かいたまえ、ここは往昔八幡太郎義家が阿部(安倍)征伐のため御下向ありし時、今高水寺の城をその頃までは高水寺の館と言いしを攻めんとて、このところに陣を取りたまうによりて世俗陣ケ岡と号す。その後奥州の守護伊達秀衡退治のため文冶年中(文冶五年=一一八九)右大将頼朝御下向の時も厨川柵を御一見のため、この陣ケ岡に旅陣を居たまう。代々源家の陣所なれば不肖ながら信直も清和の流れを汲み、身慮外は御免候へかし、武連の力を添え嗣(つ)がさせたまえとて陣ケ岡を向陣と定め、それより直々高水寺の城取り押え寄せたまう。城方より降参の者ありて関所々々の聞貫(かんぬき=閂)を外しければ、南部勢すでに城下まで込み入りける。敵する者一人もなく城中物淋みしく見えければ不審に思い、もしや謀りもやあらんと降参の者どもに軍勢を添えて城内へ遣し見なしたまえば、御所はもはや落ちられ、鑓・長刀・旗・指物斗塀裏に結び付け置き、武士一人も見えず、信直公すなわちこの城に入りたまう。それより九月の修理(中野か)に仰せて日詰西御所を囲みたまえども武士一人もなし。斯波の諸士降(人)をば助け、叛するをば誅して、しばしこの城に住したまえ、当所成敗をなしたまう。この時陣ケ岡へ正八幡を勧請す。

  簗田大学・岩清水右京・太ケ生玄蕃・太田・小屋敷・煙山等を始め、各(おのおの)高水寺の城へ参り、信直公へ謁礼し本領を安堵す。岩清水右京・簗田大学の両人は知行千石ずつを賜りけり。されども右京は謀叛逆の長なり。主に弓を彎き、兄を叛せし天罰にや、信直公の御子利直公の御代に至り、罪を得て大ケ生の城にて亡びけり。子孫永く断絶す。

  さて信直公は城には郡代を居(据え)置かれ、それより不来方の慶膳館に入りたまう。福士伊勢・中野修理・日戸内膳以下の人々何も御目見仕り、感状を下されけり。

  この斯波郡ことごとく南部へ属従の根本は中野修理が計策故とて、斯波の内片寄村の近郷を三千石賜りけり。依て片寄修理とも名乗りけり。福士伊勢に三百石、日戸内膳に三百石と加増を賜わり、その外功ある岩手衆に加増、あるいは本領を安堵し、いよいよ忠義を抽(ぬきんず)けり。信直公中野・福士にもし再乱に及ばば早速注進いたすべく候。この末、城共に堅固に支えよといよいよの事を言い含めたまえて八月半ば過ぎに糠部へ帰陣したまえば、諸兵も喜び勇んで本所本所に帰りける。

  しかるところ、北左衞門信愛も金澤の首尾残る所なく、同月末に糠部へ帰りければ、信直公大いに喜びたまへ、汝は儲に斯波を切り取りたりとて右のことども語りたまへば、左衛門喜び限りなくこそ見えにけり。(「祐清私記乾」)

 【解説】
  信直が不来方入りをして後、経か森(蝶ヶ森)から陣ケ岡へ到る順路は定かではないが、『篤焉家訓』は盛岡から花巻への往古の道として「往昔往還筋は、上田堤の上より法泉寺下、それより報恩寺前・下小路・今の春木場の川を越、妙泉寺山下より八幡横丁へ出、松尾社の前・上小路・神子田へ至り舟渡なり、仙北丁、今の升形の辺(北日本銀行仙北町支店・いわて生協ベルフ仙北付近)へ出、それより向中野道へ出て東根山の下を通り山続きに花巻まで出る也、今の往還は重直公御代御改め造る所の新道也、今志和稲荷社の近辺に道祖神と言う牌あり。ある書に、今の志和稲荷社は志加里和気の社にて、道祖神也、鹿渡の諏訪の神同断、往還道知るべの神也と言う、また言う、往還は花牧(花巻)より西山根志和へ出、それより山根通、向中野へ出て渡を越え、鹿渡(門・蝶ヶ森の西麓)へ出て神子田より上小路へかかり、里東顕寺前より今の馬道に出て尾崎社の前より曲がり、天神の脇道より妙泉寺後を通り、春木場の川を越え、阿弥陀堂(山岸二丁目)より関口(愛宕町の内、中央公民館側バイパスの西側附近一帯)へ通るという、郡山より津志田までは別て曲道多く道に付き、今の直道に御直し成され候わば、明暦年中、重直公御代也」とある。一応の参考になろうか。
    ◇   ◇
  『祐清私記』斯波古人の伝記に「斯波郡と申すことは、高水寺城の南六、七丁も隔て北上河の流れに赤石明神の社あり、彼の前水底に赤石あり、川水この石に塞れて小細波紫に見えければ、号して紫波郡という、延文年中に斯波殿下向故、紫波を斯波と書く、さりながら領主の名を呼ぶ時は斯波、所を言う時は紫波なり。天正年中南部の御手に入りし後、諸士属(したが)へども、地下人の数は多し、どうもすれば徒党を企んとす。これによって信直公自筆を授けたまへて紫波を志和と改めたまう。これは志を和げよと言う心なるべし」と見える。

  斯波氏の滅亡は「仁徳の君なければ下に忠義の従なし」と評して一刀両断に切り捨てられているが、紫波を志和と改めなければならなかった背景には、表現こそ違うが、斯波氏が高水寺城落居に際して「年来久しき領主なれば、志ある地下人ども思い思いに付き従いけり」と言わざるを得ない、領民に慕われる領主像が彷彿される。

  勝者の歴史に彩られ真相はいかなるものか知る由もないが、物いわぬながらも斯波側の秘められた史実が透けてみえるように思えるのではなかろうか。没落後の斯波氏については三十六話を参照されたい。


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