2005年 11月 4日 (金) 

       

■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉12 和井内和夫 久保田藩の苦境3

 薩長の政権奪取の端緒になった明治元年1月3日の鳥羽伏見の戦い以降、久保田藩に関係する主な事件を時系列に並べてみると次のようになる。

明治元年
3月23日 九条鎮撫(ちんぶ)
     総督仙台入り
4月19日 久保田藩第一次庄内
     侵攻
   20日 西軍参謀世良修蔵福
     島で斬殺(ざんさつ)
明治元年
5月3日 奥羽越列藩同盟結成
   9日 沢鎮撫副総督秋田入
     り
   10日 沢副総督秋田退去
   18日 九条鎮撫総督盛岡へ
     向け仙台出発
6月27日 沢副総督大館経由能
     代入り
   28日 九条鎮撫総督秋田へ
     向け盛岡出発(盛岡滞
     在26日間におよぶ)
7月1日 九条鎮撫総督秋田入
     り、沢副総督能代から
     再度秋田入り
   4日 久保田藩士仙台藩使
     者暗殺、久保田藩奥羽
     越列藩同盟離脱
   11日 久保田藩第二次庄内
     侵攻
8月8日 盛岡藩久保田藩に宣
     戦、翌々10日侵攻開始
   27日 西軍佐賀藩兵鹿角口
     参戦
   28日 米沢藩西軍に降伏
9月15日 仙台藩西軍に降伏
   22日 会津藩西軍に降伏
     (鶴が城開城)
   23日 庄内藩西軍に降伏
明治元年
9月23日 弘前軍野辺地で盛岡
     領侵攻
   25日 盛岡藩西軍に降伏
 
  これを見ると短い期間に事件が連続して起きており、当時の貧弱な情報収集能力では、当時京都を舞台に動いていた権力闘争の状況や、薩長を中心とした西軍と奥羽越列藩同盟軍の正確な戦力分析を行うことは不可能であったと思われる。

  徳川幕府対薩長の戦争で最終的にどちらが勝つかは、当時限られた国内の開港場を通じ、そのどちらとも貿易関係にあった、イギリスなど諸外国の関係者にも判断がつかない状況だったようで、そのことも「成り行き説」を中心と考える理由の一つである。

  もっとも、九条鎮撫総督と沢副総督はそれぞれ随伴兵(注3)を引き連れていた。その兵力は合わせて1300人以上と伝えられており、久保田藩としては久保田城下所在の直隷(ちょくれい)軍数百のところの懐に入られては、ほかに方途が考えられたにせよどうにもならなかったであろう。

  その点、沢副総督の弘前入りの希望を断るなど、向背にかかわる問題を巧みに回避しつつ時を稼ぎ、戦争後半西軍が優勢になってからも、“及び腰”で申し訳程度の兵力を派遣していただけなのに、盛岡軍の敗戦を見きわめてから、突如盛岡藩領野辺地に侵攻(注4)した弘前藩の終始徹底した日和見主義とは異なっていることは確かである。
    ◇    ◇
  【注3】随伴兵
  九条鎮撫総督と沢副総督は西国兵を伴っていた。その中核は戦争初期の庄内攻め以来沢副鎮撫総督が率いていた薩長兵と、九条鎮撫総督が率いていた佐賀兵である。

  【注4】弘前藩野辺地侵攻
  明治元年9月23日というと、盛岡藩が西軍に対し降伏謝罪の申し入れをしたのが9月21日であるからその2日後のことである。

  その日の未明、それまで何の動きも見せなかった弘前軍が、突如盛岡領馬門(まかど)村を襲撃した。180人の弘前兵が侵攻し全村(と言っても全戸数六十数戸である)を焼き払った。弘前藩は7月15日に同盟から離脱したものの、同盟軍に敵対する意志がないことを表明していた。(事実久保田藩からの再三の応援要請にも形式的にしか対応しなかった)

  現地盛岡軍は、主戦場である鹿角口での停戦と、西軍に対し降伏謝罪の申し入れをしていたこともあって緊張を欠いていたため、最初は混乱したがすぐ立ち直って反撃し、弘前軍に40人以上の死傷者を与え撃退している。それまでの日和見的態度と言い、勝敗が明らかになってから戦争参加の実績づくりを図った要領の良さと言い、オポチョニズムの典型として後々まで話題になった。(旧盛岡藩士桑田元理事長)


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