2005年 11月 5日 (土) 

       

■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉13 和井内和夫 久保田藩の苦境4

 ■領内の惨害と戦後の不当な処遇
  久保田軍は薩長藩閥政府秋田派遣軍の指揮下に入ったため、戦場では常に最前線に配置され、また退却の際の殿軍(しんがり)など困難かつ危険の多い戦闘にかり出され、前に書いたように西軍では最も多くの死傷者を出している。

  また領内の大部分が戦場になったため、民家の焼失や農作物の滅失、そして農民の離散など大きな被害をこうむっている。

  それに加えて、薩長肥を中心にした4千人(最大時には6千人以上とも)を超える西軍の駐留と参戦に伴う多額の費用を負担させられ、勝者であった久保田藩のこうむった経済的損害は、敗者盛岡藩などに劣らないものであったといわれている。

  それにもかかわらず、西軍秋田派遣軍首脳たちが自己の栄達と保身のために行った、中央に対する自分たちに都合のよい報告のため、久保田藩の功績や犠牲に対する評価は低く、西軍に味方した全部の藩に与えられた賞典禄(注5)のほかはほとんど報いられることはなかった。

  ただし、明治17年華族制度に5つの爵位が定められたとき、久保田藩佐竹家は侯爵になっておりこれは間違いなく褒賞であろう。ちなみに賊にされた盛岡藩南部家は幕藩時代は佐竹家と同格であったにもかかわらず一段下の伯爵である。

  当然のことであるが、久保田藩は薩長藩閥政府に対し、戦争による直接の被害や経済的負担などに対する補償を要求しているが、薩長藩閥政府はいろいろな理屈や難癖をつけてことごとく拒否し、逆に久保田軍の戦争中の戦いぶりや、盛岡藩に関する戦後処理などについて、「その兵柔弱にして、礼儀武士道を知らず」とまで罵(ののし)り厳しく難詰している。

  「勝手に味方して、また助けてもらって、今さらなにを言うか」という態度である。

  あげくの果ては、自分たちが久保田藩士を教唆してやらせた仙台藩士暗殺について、「慶邦(仙台藩主)家来並びに利剛(盛岡藩主)の軽卒を故なく殺害いたし乱状不届きの事」と問責している。今でもよくある権力を握った者の開き直りである。

  仮にも正義を唱えた薩長が、自分たちのために多大の犠牲を払ったかつての味方を、弊履(へいり)のごとく棄てたまではともかく、ここまで厚顔非情になれるとは信じ難いことである。

  【注5】賞典禄
  戊辰戦争で勝利した薩長藩閥政府は論功行賞として永世(末代まで)加増や終身(当人一代限り)加増をしたり報奨金を支給した。

  加増の一番大きかったのは薩摩と長州の藩主である島津・毛利の両家でそれぞれ10万石、藩士クラスでは西郷隆盛の2千石が最高であるが、公卿(くぎょう)となると三条實美と岩倉具視がそれぞれ5千石であるので大分優遇されている。

  東北関係では、秋田久保田藩主の佐竹家が2万石、弘前藩主の津軽家が1万石の加増で、その他公卿参謀の醍醐忠敬が600石、前出の武家参謀大山格之助は800石である。

  戦死者450人に加え領内が戦場となり大きな被害を被った佐竹家の2万石に対し、戦死者はその10分の1以下の約40人で、それ以外には全く被害のなかった津軽家が1万石とはいささか奇異な感じを受ける。秋田では当時話題になったそうである。

  大山とともに九条鎮撫(ちんぶ)総督の参謀で、東北戊辰戦争の初期仙台藩士に斬殺された長州藩出身の世良修蔵は葬祭料として450石を支給されている。
(旧盛岡藩士桑田元理事長)


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