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長嶺ゲン |
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明治のカナダ日系社会で「公共事業の為に寝食を忘れて尽くされた…女丈夫」、「晩市、日本人メソジスト教会の母」等と評された長嶺ゲンは、盛岡の出身である。
ゲンは、万延元年(1860年)1月10日、盛岡近郊志家村鍛治町で生まれた。維新前夜の彼女の家族は、祖父弥一を筆頭に、キヨ(祖母か)、久(不明)、父忠司、母タミ、次女サダ、長男忠太郎、末子ヨシの9名だったようである。
長嶺家は遠祖を長嶺七右衛門とする。「参考諸家系図」に次の記録がある。
「鹿角郡ノ人也、天正中津軽ニ至リテ津軽右京為信ノ家臣トナリテ、津軽長嶺村ニ三百石ヲ領シテ氏トス、後為信ニ叛テ三戸ニ来ル、信直公ニ召シ出サレ三駄二人扶持ヲ賜フ」。
七右衛門には将勝、慶勝の2子があった。将勝は長嶺本家を継ぎ、幕末の長嶺左司家(50石4合)となる。七右衛門を襲名するのを常とした。次子慶勝は「作平或弥右衛門」、作兵衛とも称し、長嶺分家を立てた。「重直公ノ時御鷹匠ニ召シ出サレ(略)、重信公ノ時御物書ニ召出サル」とあり、10駄3人扶持(ほぼ40石)を給された。代々弥右衛門を名乗った。幕末の当主弥一(ゲンの祖父)の祖である。弥一も明治の戸籍では弥右衛門となっている。
弥一は南部藩の勝手方を勤めた。そして娘タミの婿に忠司を迎えた。忠司の出自は定かではない。忠司は長嶺家に入婿して片馬3人扶持(約20石)を給された。南部家中では軽輩の1人であった。
忠司は人物であった。記録によれば、明治2年8月10日、版籍奉還後の盛岡藩の知事に南部利恭が任命され、同年10月12日、忠司は藩庁の重役「任盛岡藩権少参事兼会計権督務」として登用された。そして翌年4月15日、「被免本官」となっている。間を置かす、長男忠太郎(文久4年生)が「明治3年8月朔日家督」となり、「同年7月12日盛岡県属士族被仰付」となったのは、突然長嶺家に難事が降りかかったものか。わずか6歳そこそこの長男に家督を譲らなければならなかったことに異変が推測される。ゲンはそのとき10歳であった。
その後忠司の動静はしばらくの間不明である。明治11年、下太田村2等戸長として岩手県史に登場した後、消息はぷっつりと途絶える。忠太郎も長嶺家から名を消してしまう。長嶺家菩提寺長松院の墓碑には両名の名はない。長嶺家はタミの後ゲンが継ぎ、養子直哉(ゲンのおいに当たる)が受け継ぐことになる。(つづく)
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