■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉15 和井内和夫 透けて見えるもの
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■戊辰戦争とは
今から約130年前に起きた国内戦である。明治初年正月3日、京都近郊鳥羽伏見における徳川幕府軍と薩長軍を主力とする西軍との戦闘に始まり、徳川幕府軍の後退と西軍の進攻により、戦場は次第に東に移動し、彰義隊で有名な江戸府内の上野寛永寺攻防戦と、それに引き続く北関東と北越の戦い、そして現在の青森県西部の弘前藩領を除く東北地方のほぼ全域を戦争に巻き込み、北海道函館五稜郭城塞の攻防戦で終わっている。
五稜郭に立てこもった、徳川幕府の海軍副総裁榎本武揚以下が降伏したのが翌明治2年5月18日であるので、1年5カ月間にわたった戦いである。
徳川方と薩長方合わせて十数万の兵力が動員され、東北地方だけで両軍合わせて1万人以上の戦死者を出した戦争であり、敗戦の憂き目をみた東北各藩は、薩長を中心とする西軍に反発抗戦した責めを問われ厳しい制裁を受けた。
■東北における戊辰戦争の性格と目的
戊辰戦争の発端は、「鳥羽伏見の戦い」として歴史に残る、京都近郊鳥羽伏見における徳川幕府軍と薩長軍との遭遇戦である。鳥羽伏見の戦いは薩長側の挑発があったにせよ多分に偶発的なものと言われるが、東北における戊辰戦争はそれとは性格も目的も明らかに違っている。
戊辰戦争の性格であるが、私たちが戦前教わったように、天皇から与えられた「錦の御旗」を担いだ薩長が正義で、それに逆らって戦争を起こした奥羽越諸藩が悪だという、明治薩長藩閥政府の決めた図式を信じている人はまずいないであろう。
大政奉還と王制復古の号令、そして鳥羽伏見の戦いに破れた徳川慶喜が蟄居謹慎(ちっきょきんしん)することにより、形式的にも実質的にも政権を握った薩長が、東北地方に戦乱を持ち込む必然性があったのであろうか。
ドイツの戦略家クラウゼヴィツは、有名な著書である「戦争論」の中で、戦争は政治的目的を達するための手段であると規定している。その意味では、徳川幕府が崩壊し政治的権力は既に薩長側に移ったこの時期、欧米列強に内政介入の口実を与える危険を冒してまで、東北を無理やり戦乱に巻き込む必要はなかったはずである。
わたしの考えでは、東北を戦乱に巻き込んだ直接の要因は、薩摩・長州両藩の会津・庄内両藩に対する復讐(ふくしゅう)心である。国家のためを考えたわけではないし、もちろん東北で生活を営む百姓・町人のためを思ってのことでもない。
もし復讐心以外に彼らを動機づけたものがあったとすれば、戦争によって自分たちに逆らう勢力を叩(たた)きつぶし、東北の天地を自分たちの思い通りにしたいという支配征服欲であろう。
従って平和的解決は最初から論外で、“何がなんでも”戦争が必要だったのである。その意味で東北における戊辰戦争は、クラウゼヴィツの定義から外れた“戦争のための戦争”である。
薩長側に言わせれば、会津・庄内両藩が言うことをきかなかったという言い訳があろうが、反発抵抗させる手段はいくらでもある。要するに相手が飲めない無理難題を吹っ掛ければいいわけである。武力討伐を止める条件として、会津藩主松平容保の首を差し出すことを要求しているのがそれである。松平容保は幕末京都騒擾(そうじょう)期の京都守護職であるが、別に悪事を働いたわけではない。京都守護職としての職務を忠実に行っただけで、薩長の要求は復讐のための言いがかりである。
薩長両藩の復讐心とは言うまでもないが、長州藩の場合は、4年前の蛤御門の変(注1)以来の怨(うら)み重なる会津藩に対する報復であり、また薩摩藩の場合は、前年暮れ自藩の江戸藩邸を焼き討ちした(注2)庄内藩を叩きつぶすことである。
そしてそれを自分たちは直接手を下さずに奥羽越諸藩の手でやらせようと謀ったのである。
いわゆる覇者の常套(とう)手段であり、大和政権以来西国権力が繰り返してきた「夷をもって夷を征する」の策である。
それぞれの国内事情と、相互に牽(けん)制し合って動き難い状況ではあったが、欧米列強は虎視眈々(たんたん)として日本の属国化・植民地化を狙っていた時期であり、そんな状況の時にあえて内戦を起こそうというのは「亡国の徒」と言われても仕方がないであろう。それとも薩長には英米仏露の諸国と不介入の密約でもあったのであろうか。
◇ ◇
【注1】蛤御門の変(禁門の変)
元治元年(1864年)7月19日、前年の政変で京都を追われた長州藩が、武力をもって京都を制圧しようとして起こった戦いである。内裏(だいり)に長州軍の砲弾が撃ち込まれた。京都治安の責任を担う会津藩が薩摩藩と結びこれを鎮圧した。
東北に戦争を持ち込む一因になった、会津藩に対する長州一藩の怨念はここに始まる。
【注2】庄内藩の江戸薩摩藩邸焼き討ち
政権を朝廷に奉還し恭順している幕府を挑発するため、薩摩藩は江戸市中の騒乱を企て、浪人や無頼漢を雇い、町民に対して強請(ゆすり)・強盗や町家に放火するなどの悪行を繰り返した。薩摩藩の中枢から出た指示であることは確かである。
そのあまりの暴虐さにたまりかねた幕府は、庄内藩に命じてその「盗人(ぬすっと)宿」とも言える薩摩藩邸を攻撃焼滅させた。
結果として、幕府は薩摩藩の挑発に乗ったことになり、何の罪もない庄内藩を攻撃する口実を与えてしまった。
薩摩・長州をはじめとする西側の、当時における権謀術数や汚い面の典型である。 |
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