■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉16 和井内和夫 透けて見えるもの2
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■東北の抵抗
東北における戊辰戦争は、薩長両藩を中心とする新政権が東北諸藩に発した、会津・庄内討伐命令という理不尽な無理難題から始まった戦争であるが、東北諸藩は会津・庄内両藩の宥恕(ゆうじょ)嘆願を目的として、平和解決の道を探ってスタートしていながら、途中から武力対抗に変わっている。
その理由についてはいろいろと言われているが、わたしは次のように考えている。
一、新しい権力者となった薩長両藩の会津・庄内両藩に対する無理難題を、東北全体に対する無理難題と受け止めたこと。
つまり、薩長両藩関係者の「夷(い)をもって夷を制す」の意図を察知したことである。
二、薩長関係者の言動から、彼らの心の中にある東北蔑視(べっし)の意識と、彼らがそれまでやってきたことは、勤皇に名をかりて実は自分たちの野望を実現するためであったことを見抜いたこと。
以上が主な理由であるが、そのほかにも無視できないことがある。武力対抗派の中心でありリーダーであったのは仙台藩と米沢藩であるが、仙台藩も米沢藩も戦国以来の“全国版”の雄藩であり、同じ外様大名である薩摩藩や長州藩に比べ、格式をはじめいろいろな面で対等以上と考えられ、藩首脳たちのプライドも高く、また自藩の戦力にもそれなりに自信があったわけで、たとえ“錦の御旗のご威光”があっても、薩長の言いなりになることはプライドが許さなかったこと。
また総督府参謀として東北に派遣されてきた、主として薩長出身の参謀たちはほとんどが30代以下でしかも下級武士出身である。人間的に未熟であったのはやむを得ないであろう。そして嘗(な)められてたまるかという気負いもあって、“後進地域”である東北の物の分からない“年寄たち”に教えてやるという、高飛車で押しつけがましい態度が目に余ったことは想像に難くない。
大会社の平社員から子会社に出向し初めて役職についた連中はとかく威張りたがるものである。家柄や格式にこだわる門閥重臣たちは腹に据えかねたのであろう。「こんな連中の言いなりになってたまるか」という、身分意識に根ざす感情的反発である。
平和であった東北地方が戦争に巻き込まれることを避けるため、その原因である会津・庄内両藩に対する討伐命令の宥恕嘆願を目的に盟約した東北諸藩が、軍事同盟の性格が強い奥羽越列藩同盟(注3)に変わったのは、以上のようなことが理由であると思われる。
奥羽越列藩同盟結成前後の東北諸藩の動きについては異説もある。これは明治も中期になって政府筋から出たと言われているものである。
◇ ◇
【注3】奥羽越後列藩同盟
薩長藩閥政府が東北諸藩に発した会津藩討伐命令に対し、仙台・米沢の両藩が主導しその宥恕嘆願に動いた。そのため四月に東北諸藩の重臣(出席者の各藩内での地位はいろいろであるが)が仙台藩領白石に集まり協議した。盛岡藩からは近習頭野々村真澄が参加している。
しかし宥恕嘆願書が総督府から却下されたことにより、平和的解決は不可能であるとして、諸藩の集まりは軍事同盟としての性格が強い奥羽越列藩同盟に発展した。仙台藩の意図と主導によるものと言われている。
同盟は5月3日に正式調印されているが、盛岡藩からは家老南部監物が出席している。各藩から家老級の人物が出席しているが、各藩とも事前に同盟の性格や目的などを検討した上で出席者に全権を委任したわけではないようである。
しかし戊辰戦後、同盟参加が藩閥政府の追及や藩内での責任問題になると、西軍側・同盟側を問わず多くの藩が出席者に責任を押しつけている。
(旧盛岡藩士桑田元理事長)
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