■ 〈そのとき東京駅頭で原は〉上 盛岡市記念館の木村館長が講演
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原敬の写真を掲げて講演する木村館長 |
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盛岡市本宮の原敬記念館で10月29日、生誕150年記念講演会が開かれた。木村幸治館長が「そのとき、東京駅頭で原は!、妻浅は!〜覚悟のいのち、盛岡市民のあたたかさ」と題して講演。暗殺された1921(大正10)年11月4日の1日から初七日の12日までを、時系列につまびらかに紹介し、暗殺を覚悟していた原の死にざま、遺言から見えてくる原の一徹さ、浅の死に直面したときの気丈な振る舞いや原に対する思慕の深さなどを明らかにした。(以下講演要旨)
原総理大臣は第19代10人目、就任したのは18年9月29日で、このとき本格的な日本の民主主義が始まったと歴史的に断定していいと思う。当時は民主主義と政党内閣を誰も信じなかった。軍閥、薩長閥、官僚閥、貴族閥がいた時代だった。そして21年11月4日、亡くなり、日本の民主政治が崩れ、世界平和に危険信号がともった。その後の歴史を見れば分かる通りだ。
今、小泉純一郎総理は89代、56人目。戦前29人の総理大臣のうち華族でも貴族でも軍人でもない人は3人。平民で政党の党首だった原敬、浜口雄幸、犬養毅と、全員、最後は暗殺された。これが戦前の日本の、一番研究して知らなければならないこと。原が総理大臣になる前の9代目まで鹿児島、山口、いうなれば薩摩長州以外では初めて。東北の全然わけのわからない賊軍の爵位のない総理大臣、おそらくみんなびっくりしたと思う。
84年前の11月4日、原は政友会の近畿大会に出るために午前は閣議を終了し、すごく機嫌がよかったという。原は天皇陛下にお会いし、京都に行くと、いとまごいをした。ちょうど、菊が香るころで天皇陛下は鉢ごと花をくれた。午後は首相官邸に行き中国の特派員董顯光に会い、日本は、わたしが総理でいる限りは中国を侵略しない、占領地を少なくすると断言した。
原は家に帰って浅と一緒に夕食を取った。午後7時半発の神戸行きの列車に乗って京都に行く予定だった。7時20分に出発してすぐ東京駅に着き駅長室で休んで7時24分に出た。記録には駅長室を出て13歩か14歩と書いている。そのとき突然ぶつかられた(短刀で刺された)。原は痛いとも言わないで「うーん」と言ってうずくまり、中橋文部大臣、小川国政院総裁らが駆け寄ってすぐ支えた。原のところには血も何にも落ちていなかったそうだ。
まず駅長室に運んだが、いすしかなかったそうだ。次に隣の助役室なそうだが、昔の図面には助役室がなく応接室とあり、おそらく応接室に入れたのだろうと思う。浅に電話を掛けた高橋書記官は、原総理は今、東京駅で鉄砲でやられた、残念ながら駄目なようだと話して、あとは話せない。浅はすぐに電話を切って、主治医の家に寄り東京駅に急行した。
駅に着いた浅は近寄って傷口のところをしっかり消毒して、服を合わせて介抱した。その姿を見ていた30人ぐらいは何とも壮絶で声も掛けられなかったそうだ。主治医が浅さん、ご臨終ですと声を掛けた。
浅はみんないるところで、本当にありがとうございましたと話し、周囲が総理を首相官邸にお連れしろと言うのに対し「亡くなればもはや首相官邸に必要のない人ですから、自分の家に連れて帰ります。これは主人もそのように思うはずですから、それを望みます」と言う。みんな納得し、遺体は寝台車の人力車で運ぶ手配をし、浅は車で帰り遺体を待った。9時ごろ、遺体が帰ってくる。
9時30分、高橋書記官長名で国民に向かってラジオ発表する。11月4日午後7時24分、原総理、東京駅にて暗殺される。致命傷は右肺部を突かれ、心臓まで達する一撃にて。凶器は短刀なりと。だから国民は9時半に分かった。
天皇陛下は「原総理が心配だ。すぐに叙勲の手続きをしろ」と言った。正三位勲一等原敬に対し、位階1を進め正二位勲一等菊花大綬章を授けると発表する。この間、1時間もない。家に連絡が来る。高橋書記官長は、ふだんからいらないと言っているのでいらないと話したが、いや駄目だ、これは天皇陛下の特別のおぼしめしだ、恩命だ、受け取ってくれと。それで高橋書記官長も浅も涙ながら受け取った。当時は勲章を授ける場合、必ず上申しなければならない。原の勲章は特別、そのような経緯で授けられた。
(つづく)
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