2005年 11月 9日 (水) 

       

■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉17 和井内和夫 透けて見えるもの3

 東北諸藩あるいは奥羽越列藩同盟が、当初の平和解決の方針から武力抗戦に変わったのは、各藩の重役たちの功名心や権力と主導権をめぐる争いが原因だという説である。

  その根拠として、列藩同盟の発端が明治初年4月11日の仙台領白石における各藩の“重役たちだけ”の会合であること。戦後処理において、藩主で死罪になった者は一人もなく、また東北では実戦部隊の指揮者はほとんど処罰されていないことを挙げている。

  しかし短期間に東北25藩(後に北越6藩が加わった)が一本にまとまったこと。会津・庄内両藩のように薩長の復讐(ふくしゅう)の対象ではなく、また戦後体制について野心もなかった二本松藩や盛岡藩などが、藩を挙げて損害をかえりみず戦っていることなどを考えれば、各藩重役たちの功名心や権力争いなどからとはとても考えられないことである。

  また旧藩主たちに対する寛大な処置は、敗戦後の日本に君臨したアメリカ占領軍司令官マッカーサーが、自分の責任である占領目的の達成と占領行政全般の効率的運営に対する効用を計算し、ソ連やオーストラリアなどの強い反対を押し切って天皇制の存続を認めたことを考えれば理解できるであろう。そして現場指揮者に対する処罰が意外に少なかったのは、全部の者ではないにしろ、薩長関係者が自分たちの東北侵攻について、“多少”は忸怩(じくじ)たる思いをいだいていたことの一つの証しではないだろうか。

  この異説は薩長の理不尽な東北侵攻を糊塗(こと)するための意図的な付会(ふかい)説で、東北諸藩の方針変更の主な理由は、前に書いたように、薩長側の理非を超えた横暴な要求に対する反発と、その背後にある、西国人の東北そして東北人に対する優越感と支配征服欲を感じ取ったためとする従来の説のとおりであろう。
 
  ■西国人の東北観
  戊辰戦争に限らず、それ以前もまた明治以降も、西(関西)と東(東北)のいろいろな問題の多くは、西国人の東北観が根源にあるというのがわたしの持論である。

  大分前のことであるが、今は亡くなった関西某ウイスキー会社の会長で関西経済界の重鎮でもあった有名人が、「東北の熊襲(くまそ)」なる迷言を吐いて顰蹙(ひんしゅく)をかったことがあったが、これは口が滑っての失言などではなく、多くの西国人の心の中にあるものであろう。

  それ以外にも西国人の東北そして東北人に対する優越感や差別意識を示す事例は枚挙に事欠かない。

  戊辰戦争における西国勢の東北に対する考え方は次のようなことにも現れている。
  ○わたしたちが習った戦前の教科書では戊辰戦争は「戊辰の役」であった。「前九年の役」とか「後三年の役」そして「戊辰の役」となるが、「役」は対等の関係に使われる言葉ではない。正統であるものから見て従うべき者との戦(夷狄=いてき=を征伐する場合)や、支配される者の支配者に対する義務を言う言葉である。

  戊辰戦争に限らず、中世の大和政権以来西国から見た東北は常に「役」の対象であったのである。
  ○「鎮撫(ちんぶ)総督」というのが、戊辰戦争における東北侵攻軍の総司令官につけた肩書であるが、鎮撫という言葉も対等の相手に使う言葉ではない。支配する者が背く者の反乱を鎮めるという意味である。しかし鎮撫総督の東北入り当時、東北で反乱を起こした者はない。

  戦争に際しては、味方の士気を高めたり“相手を怯(ひる)ませる手段”として、いかにも自分たちの側が正義だと言い立てる場合があるので、この肩書もそのたぐいであろう。

  横暴を極めたと批判されるかつての日本陸軍でも、「支那派遣軍」とは言ったが「支那征伐軍」や「支那膺懲(ようちょう)軍」とは称していないのである。
(旧盛岡藩士桑田元理事長)


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