■ 〈そのとき東京駅頭で原は〉下 盛岡市記念館の木村館長が講演
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浅は5日午前2時、原の手文庫を開ける。遺言状が出てきた。さぞ泣いたことだろう。立ち会ったのは浅と弟誠、高橋光威。5日の午前中には内閣書記官長名で遺書が発表された。6日。原の家での最後のお通夜。いろんな人が来る。原家では香典や花は要らないと言ったが、どんどん届きそのたびに返した。宮家と大臣から届いたのだけはもらった。
7日午後8時、盛岡に運ばれる遺体は上野駅に着く。有名人500人、一般の方3千人ぐらいがホームに集まっていた。午後10時、上野駅を出発。盛岡駅には8日午前10時すぎに到着。本宮の青年団がそろいのはっぴを着て、50人が2列縦隊で素足のままホームに入り、ひつぎを別邸に運んだ。
9日。別邸に入って拝み、大慈寺に浅と高橋書記官長が行く。墓の場所は前にだいたい決めてあったが、ここでよいと確認した。午後5時、本宮の青年団50数人が協力し、ひつぎを持って出発する。大慈寺に到着すると本堂で拝み、お墓を掘る。浅は見ていて、墓掘りに深さ何尺でしょうと執ように聞いた。知ってどうすると聞かれ、浅は「わたしが埋まるときは、深く埋まれば見上げるようで嫌だし、浅ければ見下ろすようで恐れ多い、同じ深さにしてほしい」と言った。終了時刻は10時35分ぐらいだったそうだ。
10日、勅使が来た。なかなか勅使が来ることはありえない。天皇陛下からの目録2通を渡す。天皇陛下の弔辞である誄詞(るいし)を読む。11日、本葬儀。出棺の準備をして、多くの市民が焼香に行った。午後1時出発した葬列が大慈寺を目指した。本堂に入り、40人のお坊さんがお経を上げた。本葬儀終わり、12日、初七日法要。寺では500人が拝んだ。浅はその夜、号泣したそうだ。
本宮村の人たちは逸山会という会をつくり、青年会が本葬儀では天皇皇后両陛下の生花、宮家のサカキを持つなど全部当たった。本宮の人たちは、原の写真と写真の後ろに「大正10年11月4日午後7時39分ヲ忘ルナ」と書いたものを渡したそうだ。何を忘れるななのか考えた。
一山百文の平民からはい上がった原は、元老政治、藩閥、軍閥に対し政党政治を実施した。中国、朝鮮に侵略しないでアメリカ重視の平和外交をした。命を懸けて天皇陛下の外遊を実施した。こうして真っ正面から取り組んだ原が殺されてしまい悔しい、これを忘れるなということと思う。
犯人の名刺を手に入れた。「トルコ、タタアル民俗文化研究所 中岡艮一 哈爾M(ハルピン)市砲隊街72号」という名刺。これを見ればだれがバックかは推測できる。中岡は監獄に入って34年1月30日に出所している。刑罰は無期刑だったが、大正天皇崩御、昭和天皇即位、昭和天皇ご成婚の恩赦で刑が13年になった。出所して行った場所が満州、関東軍。バックは軍閥、関東軍の人なのだろう。
世界中の人が日本は素晴らしいリーダーを失って世界平和が崩れるということを一番心配していた、アメリカの新聞、中国、イギリス、フランス、全部そうだ。軍閥の圧力に負けないで、中国の主権を認めながら友好外交をした唯一の総理で、このあとは分からないと書いている。
本宮青年会は、どういう服装をするか考えた。昔式の白いものを着るようにと原家から言われ、奥さんたちはおそらく徹夜で作っただろう。考えただけでも大変だったろうが、それを本宮の青年会は誇りにしてきた。その記録を見ると、誇りだと思う。
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