最近、盛岡市内に馬車を走らせようという構想が話題となっている。おもしろいもくろみでぜひともうまくいくように念じているが、実際に運行するとなると何かと差し障りが多いようだ。
その厄介ごとの一つに、馬の排せつ物があるらしい。確かに、毎年の「チャグチャグ馬コ」の行列でも頭を悩ましていることを仄聞(そくぶん)しているが、昔ならたいして問題にならなかったことでも、当節はいろいろと気を使わなければならないのはやむを得まい。
芭蕉の「奥のほそ道」で芭蕉たちが鳴子から山形の尾花沢への山道の途中の尿前の関をこえたところで、同じ棟に馬を飼っているらしい民家に泊まるくだりがある。
そこで詠んだ句が「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと」で、どうやら傍若無人に排せつする馬との同宿で芭蕉たちにとっては切なく味けない旅寝になったようだ。しかも普通一緒には発生しないノミとシラミに襲われるに至っては眠るどころではなかったのだろう。
そのノミとシラミは今では希少生物になりつつあるけれども、古くから日本人を悩ましてきたことは確かで、芭蕉でなくてもつい愚痴がでることはもっともなことだと思う。
清少納言は「枕草子」の「にくきもの」という段に「蚤もいとにくし。衣のしたにをどりありきて、もたぐるやうにする」とノミにはほとほと手を焼いている気持ちを描いているが、平安の女性が十二単(ひとえ)の着物にたかったノミにむずむずしている悩ましげな様子が目に浮かぶ。
また、「徒然草」の97段で、兼好法師は「その物に付きて、その物をつひやし損ふ物、数を知らずあり。身に虱あり。」といって健康を害するシラミを嫌って大げさに非難している。
宮古に生まれた高橋子績が1762年(宝暦7年)に63歳で沢内に流されそこで綴(つづ)った「沢内風土記」は当時の和賀地方の厳しい自然や人々の生活の実情をいきいきと紹介した貴重な文献でもあり、特に住民の過酷な暮らしを描写した文章は瞠目(どうもく)に値する。
ノミについての記述もすさまじい。「蚤は4月から9月までの間で、10倍も多い。土の中からわいて出てくる。床から衣服に潜り込み、寝ても起きても人を刺し、皮膚は疱瘡(ほうそう)にかかったようになり、夜は眠れない。夜通し起き上がって払うのだが、次から次にわき出てくる。疲れ果てて朝まだきにやっと眠るのだが、蚤が居なくなったわけではない。冬にも出てくる。誠に堪えられない。」(泉川正氏意訳)と慨歎(がいたん)している。
下って、明治維新の前後に日本を訪れた外国人は少なくないし、その見聞録もいくつか残されている。
中でも1878年(明治11年)に当時47歳のイギリスの女性イザベラ・バードが日光を振り出しに新潟から山形、秋田、青森をへて北海道までの旅行を記した「日本奥地紀行」は、江戸時代の名残が色濃い北日本のありさまを微に入り細にわたって記録しているが、その95年ほど前、同じように東北や北海道を旅した菅江真澄の「真澄漫遊記」とはひと味違った情景の描写をしていて、大変出色の紀行文といえる。
奥地旅行を前にしてイザベラ・バードは知人から「日本旅行で大きな障害になるのは、蚤の大群と貧弱な馬だ」と警告される。
実際、彼女は出発早々にその忠告が身に染みることになる。ノミを防ぐために特製のベッドを携行するのだが、あまり役に立たず行く先々でノミに悩まされる様子が克明に描かれている。
貧弱で乱暴な馬にも苦労する旅行だったらしいが、見知らぬ国で女性が1人(有能な通訳がついていたようだが)で旅行した勇気とエネルギーには兜(かぶと)を脱ぐしかない。
蛇足だが、馬車をひく馬の排せつ物対策は、特製の「おしめ」か「パンツ」が次善の策のように思うがどうだろうか。 (盛岡市つつじが丘)
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