2005年 11月 10日 (木) 

       

■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉18 和井内和夫 透けて見えるもの4

 

○戊辰戦争の際、薩長藩閥政府が派遣した奥羽征討軍総督府の参謀に、薩摩藩出身で後に鹿児島県令になった大山格之助とともに長州藩出身の世良修蔵なる者がおり、傲岸(ごうがん)・不遜(ふそん)な言動により奥羽越列藩同盟側の憎しみを買い、遂には「奥羽皆敵覆滅案」を上申した密書を暴露され暗殺されている。福島で宿場女郎と同衾(どうきん)していたところを襲われており、そのこと自体緊迫したこの時期常軌を逸した振る舞いで、東北人をよほど見くびっていたことがうかがえるが、この程度の人物を総督府参謀という重要なポストで派遣したということは、図らずも西国人の東北に対する見方を現しているとも言える。

  ○戊辰戦争において秋田久保田藩は薩長側に味方し、そのため藩内の大部分が戦場になり人的にも物的にも大きな犠牲を払っている。にもかかわらず、戊辰戦争後における新政府の秋田久保田藩に対する処置は、よく知られている人材登用面における冷遇だけではなく、異常ともいえるほど差別的であり強圧的である。薩長藩閥政府が意図的に取り上げたといわれる、初岡敬治刑死事件や贋金事件などがそれである。


  また久保田藩は、戊辰戦後盛岡城の接収や盛岡藩主の東京護送に携わっているが、それらのやり方についても薩長藩閥政府はさまざまな難癖をつけている。その中には明らかに〓こじつけ〓としか思われないこともある。

  それらのことを重ね合わせて考えると、薩長藩閥政府は久保田藩を本当の味方とは思っていなかったことは確かである。その理由は久保田藩も東北藩だからであろう。

  以上のような点から考えて、薩長両藩出身者の東北そして東北人に対する考え方の基調は、戊辰戦争における敵味方に関係なく優越意識であることが分かる。

  会津若松鶴が城落城後、会津若松城下に横たわる会津藩戦死者の遺体を片付けることを許さず、腐乱と野犬やカラスの食い荒らしにまかせたのも、東北人を蔑視(べっし)し差別していなければできないことであろう。

  アメリカ騎兵隊によるアメリカインデアンの殺戮(さつりく)や、イギリスが植民地インドの制圧に、後にあまりに残酷だとして禁止されるダムダム弾を使用したことが、人種差別に発したものであるように、戊辰戦争当時の薩長など西国人は、東北の人間はだましてもいいし殺してもいいと思っていたのではないだろうか。

  長州出身で三たび総理大臣になった桂太郎の戊辰戦争当時を振り返っての言であるが、「奥州人は西南人に比して知識低位」「暖地に生まれたる者は利発、寒地に生まれたる者は朴訥(ぼくとつ)なり」がある。

  そして奥州人の薩長人に対する反発は、一つは「奥州人が知識の程度低いため」であり、そしてもう一つは、奥州人が“薩長人が奥州人に接する態度”から、「薩長人は、知識の進みたる者(薩長人)が知識の進まざる者(奥州人)に対し号令するのは当然だと考えている」と“誤解”したことによると言っている。
  自らを「知識が進みたる者」、われわれの先祖である奥州人を「知識の進まざる者」と決めつけておいて“誤解”とはよく言ったものでまさに語るに落ちている。
  戊辰戦争当時の彼ら西国人は、東北を支配征服した快感に浸っていたことは間違いないであろう。日本人を「一二歳の少年」と見下した前出のマッカーサーのようにである。
(旧盛岡藩士桑田元理事長)


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