■ 〈古文書を旅する〉88 工藤利悦 盛岡城の築城時期はいつか
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■さまざま取り集め書きのこと 一
その頃、利直公福岡の城に御座けるか、浅野弾正長政公仰せによって不来方の城御取り立てあり、さてまた不来方の城と申すは、前は日戸内膳(五兵衛)居館成りしを御取り上げ、このごとくその前本丸に正八幡宮を造立しける。今は三の丸と成る、そのところに八幡の烏帽子の緒は例年極月みそかの晩日戸方より奉る。
慶長八年(一六〇三年)の頃より御城御普請これあり、同十四年(一六〇九年)の頃は大方地形等も極り、外曲輪その外所々橋など普請。中津川上の橋は同年十月中旬渡り始めこれあり、中の橋は同十六年(一六一一年)八月渡始めあり、それより段々御普請極りて御在城なられ、不来方を盛岡と改め志和郡々山の城一度御在城とは申すは森岡城普請のみぎり、福岡の城は遠所なる故郡山を仮りに遊ばされ、盛岡の御用御勤めあり。郡山は要害よく四方険阻の山なり。後ろは北上川城の腰を流れ、山腰高くして鳥も飛び付き難し。前は広野にて屈境の地なれども盛岡よりは分内せまし。その上仙台領へ半日も近き故と承る。
【解説】
『祐清私記』には盛岡城築城に関する諸説をたくさん納め、諸説百花繚乱の状況を醸している。この話もその一つである。
その頃とはいつの頃か定かでないが、利直が浅野弾正長政の言いつけによって不来方城の築城を開始したという。慶長八年頃から御普請が始まり、同十四年(一六〇三年)の頃は大方地形なども決まり、中津川上の橋は同年十月中旬渡り初めがあり、中の橋は同十六年八月に同神事が行われたという。城下町の景観も調い始めて来たと言うことであろうか。
これも『祐清私記』に見える説であるが、一般には慶長二年(一五九七年)説が知られている。数年前に市の主導で盛岡城築城四百年のイベントがあったが、これは慶長二年説に基づく行事であった。
ただし、慶長三年説もあって二年継続のイベントであったが、慶長三年説の論拠は中興の祖信直が京都に滞在中、豊臣秀吉が主宰する醍醐の花見に参加したことと合わせて普請の許可を得ることになったとする、三戸に住居する娘千代子宛書状の内容によるものと聞いている。
しかし、この話は伏見城が地震で倒壊し、それに関する書状であったとする論考があって、甚だ心許ない説と考える。その他諸説の一端を紹介して解説に代える。
■ 文禄元年(一五九二年)説
一、文禄元年 月御築立惣奉行附き添い、幕打ち軍役の下人を添え、蟇目(ひきめ)の矢、丑寅の方に向け弓弦は赤白の絹なり、同扇鏡、今世の中に用いるごとく飾り物と言うは五六尺四方の台か、赤白の餅、山のごとくに積一備とす。百盃樽二、その外いろいろの物相添え、御本丸の餅台よりなお大振りに見え候よし、餅一カ所いか程と数これある由、また御本丸御飾り物の辺り、白旗八本立て申すよし、御幕も打ち候よし、その後間杭を打ち、御縄張りこれ有るよし、次に御本丸に成さるべく所の真中を物頭のうち一人、自身に三度鍬を立て候てその土を御本丸に成るべく所の四方へ納め、その次に小身の侍・歩行(かち)・足軽・人足・小者まで入り交じりに地形を切り下る(『篤焉家訓』十九之巻 盛岡城地形築立之事)
■ 慶長二年(一五九七年)説
一、慶長二年三月、岩手郡不来方へ新たに築城御普請有り、右は去年九戸御征伐の時、諸将御帰りの節、地方御見分に候えども、その後朝鮮御下知にて仰せ付けられたく候よし御願い候ところ、先年浅野弾正が検分見屈の上は再び検使にも及ばず御勝手次第申し付けべく候よし、上意(豊臣秀吉の意)にてかくのごとくに候よし、都て新築城は御検使等まかり下り、絵図地形ともに御改め御見屈の上にて仰せ付けられ候義に候えども萬々御用捨かくのごとし。(『祐清私記』坤 南部信直公の伝譜)
■ 慶長五年(一六〇〇年)説
一、慶長五庚子年より同七壬寅年に全て修築城極り、同癸卯(八年)より元和三丁巳年迄十五ヶ年の間番城と相い成る、御高知の面々順番を以て勤む、再び御築有や(『竹田嘉良具理』一)
■ 慶長六年(一六〇一年)説
一、古伝云、上方の諸将九戸帰陣の節、不来方にて信直公へ談じて曰く、福岡は伊達領へ遠く、和賀稗貫境心元なき間、古中野に居城然るべくとて、慶長六辛丑年九月十日、浅野以下の諸将縄張要害太閤へ言上、普請有り然るべく評議なり(註 慶長六辛丑年九月十日は何によったものか不明であるが、豊臣秀吉は既に慶長二年に死去しており、記録が錯綜している嫌いがある。『内史略』前九)
■ 慶長八年(一六〇三年)説
『祐清私記』坤 様々取集書事の中にあるもので、本文に見えるた説である。
■ 元和元年(一六一五年)説
かくて元和元年不来方御城を御築城(盛岡御城)、同五己未年御移なされたまう。(註 着工か竣功か不明『奥南旧指録』巻之四 利直公御逝去之事)
■ 元和三年(一六一七年)説
一、元和三丁巳年利直公御縄張にて盛岡の御城御築御普請初まり、同五年御移り
一、利直公御代盛岡御城御築 元和三丁巳年御普請初まる 同五年月御出来栄(ばえ)御移遊ばそる それより又三戸へ御帰り成され 右の内、小笠原美濃 野田内匠御城代仰せ付けられ御留守居相勤めるなり(『篤焉家訓』壱之巻 中津川御擬宝首故実詠歌)
■ 元和五年(一六一九年)説
一、盛岡城御築の事、古名不来方(福士淡路・日戸内膳・米内右近)同居の舘、二十七代利直公御代慶長二丁酉年三月より始まり、元和三丁巳年利直公御縄張り御普請始る、しかるところ慶長四年に信直公御逝去ゆえ、しばらく福岡に御住居、その後元和五年に御普請、石垣等出来に付き、利直公盛岡に移りたまう。然るに中津川洪水、たびたび橋落ち御城へ川水押し入り、これを防ぐに安からず、再び三戸へ御引き移りなされ(三戸へ御引き移りなされ成候へども、御心にかないなしなされず、将軍家へ達し、郡山へ少の内御在城なされ)、盛岡御城は御番城になされ、小笠原美濃・野田内匠差し置せられ、その後寛永十癸酉年(一六三三年)四月二十七日に重直公江戸御出駕、御入部、五月八日盛岡御入りなしなされ、これより御代々御居城なり、寛永十三年失火出て、盛岡城炎上に及び、再び造営ありて、今に永く御居城と成る(『郷村古実見聞記』第弐 盛岡御城御築之事)
◇ ◇
『竹田嘉良具理』「岩手の城・往古の地名」の話は、右諸説の中では慶長八年説に最も近いが、傾聴に値する説と考えている。
「そもそも、岩手郡不来方の城と申すは、二十六代目大膳大夫信直公天正十九年(一五九一年)庚寅十一月九日九戸城修復在り、福岡と改め三戸郡聖寿寺の城より引移りなされたけれども、分内狭くして要害の城にあらざるに依って、慶長二(一五九七年)丁酉の春思召し立ち、浅野弾正長政を以て豊太閤殿下肥前名護屋御在陣の節、軍役二千五百人召し連れ信直公出陣あり、太閤の御機嫌を伺い、領知岩手郡の内に新城を築立たき旨を言上す、長政執達これ有るゆえに検使に及ばず勝手次第新城築き立て申すべく旨仰せ出ださるといへども、翌慶長三年(一五九八年)八月十八日に豊太閤殿下の薨去に依て延行す、兼て子息信濃守利直公惣奉行を蒙りけるが、翌慶長四年(一五九九年)には父信直公卒去に依て亦延行、打ち続きたる不幸なれども、御父君の存じ入りを以て、慶長五年(一六〇〇年)将軍家康公に絵図面を以て再び言上これあり云々」
また同書は「八幡宮略縁起并伝記年譜之話」の条において前文をほぼ再掲し、「慶長八年(一六〇三)までに御普請の全てを御成就なし遊ばされ云々」と記録、慶長八年竣工を伝えている。慶長五年に関ヶ原の合戦があり、天下は徳川家康に移ったために、改めて徳川家の許可を得た、とするところがポイントである。ただし肥前名護屋在陣は文禄二年(一五九三)癸巳であり誤りか。
あえて附記するなら、本文の中で、不来方城の場所を決定するに際して紫波高水寺城も選択肢の一つに掲げ、二者択一の結果不来方城に決定したと語られている。
だが、紫波郡が秀吉によって南部領と認知されたのはその後である。従ってこの部分は後世に創作された附会の説である。諸説が錯綜している遠因は原記録が、伝存していないところにある。
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