■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉19 和井内和夫 透けて見えるもの5
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■西軍参謀達の功名心
薩長両藩が東北を戦乱に巻き込んだ主たる理由は、前に書いたように、薩長両藩の会津・庄内両藩に対する復讐(ふくしゅう)心や東北そして東北人に対する優越感を前提とした支配征服欲であるのは確かであるが、それ以外にも考えられることがある。
若い西軍の参謀の中には、前記の大山や世良のように、一軍の司令官としてはそれまで目立った功績を挙げていない者がいた。戦争がなければ手柄の立てようがないわけで、彼らとしては何が何でも戦争が必要だったと考えるのは思い過ごしであろうか。
この点に関しては、数十年後に起きた満州事変や日中戦争の発端となった、現地日本軍若手将校の暴走と共通している。特定の人間の功名心や自己顕示欲が、結果として歴史の上に影響を与えた例は多い。
大山は久保田藩をして奥羽越列藩同盟離脱に踏み切らせるきっかけになった、久保田藩士による仙台藩士暗殺事件にかかわることになるし、世良の場合は文字どおり身をもって“起爆剤”の役割を果たしたのは前に書いたとおりである。
戊辰戦後の論功行賞で大山は薩摩藩士として最高クラスの賞典禄(戦功加増)を受けているが、それは東北における戊辰戦争あってのことであろう。
■奥羽越列藩同盟側の敗因
まず挙げなければならないことは、最初から最後まで情報不足であったことと、味方同士の意思疎通と連携を欠いたことである。
戦争に勝つためには、中国の兵法書「孫子」にある「敵を知り己を知れば百戦して殆(あや)うからず」が絶対的原則である。具体的にいえば、敵の意図や敵と味方の戦力に関するあらゆる情報を集め、それを分析したり比較検討することである。
そのことは当時の東北諸藩の指導者たちも分かっていたはずであるが、奥羽越列藩同盟の動きを見るとその努力をしたとは思われない。
この年の1月に鳥羽伏見の戦いがあったが、その敗因を分析した様子はないし、その一方、戦国以来の雄藩というだけの理由で仙台藩の戦力を過大評価し、それを頼りに西軍に対抗しようとしたことがそうである。
また奥羽越列藩同盟内各藩の連絡体制については、同盟結成当初にルールを決めているが、実際に戦争が始まってからは、西軍の東北侵攻後の各地の戦況に関する情報が、同盟側各藩に対して正確に伝えられたか疑問である。
またおそらくは、同盟側各藩の兵制・装備や軍事用語の違いなども、お互いほとんど知らなかったと思われる。長年続いた封建体制の欠陥がモロに出たわけである。
情報不足の結果、戦争の内容の変化に気づくこともできなかった。戦力を単なる兵力や個々の兵士の士気や練度によるものと考え、西軍が進めてきた組織編成の近代化(戦闘単位の規模や編成など)と、新型兵器の採用とそれに伴う新しい戦術の導入により、同盟軍とは戦力に格段の差があったことに考えが及ばなかったのである。
薩長両藩は外国軍との戦争の経験があり、とくに長州藩の場合は、外国軍との戦いのほか2次にわたる幕府軍との戦いの経験を生かし、着々と軍の近代化を進めていたのである。東北諸藩でも盛岡藩など中規模以上の藩は、蝦夷地警備に伴うロシア兵との小競り合いの経験はあったが、薩長両藩のような本格的しかも自領内での戦とは比較することはできない。
勝てる合理的根拠のないまま戦に踏み切ったわけで、せいぜい「勝てないまでも負けないであろう」ぐらいに考えていたのではないだろうか。
戦争の終結にどう持っていくかということを含め、国内情勢全般を分析した総合的判断と政略的構想についても、希望的観測をまとめた程度のものであったようで、今次大戦における日本政府の判断と似ているようである。とくに大戦後半守勢に回ってからの日本軍は、個々の兵士の闘志だけを頼りに戦争を続けていたとしか考えられず、国家の意志を貫徹するという政治的目的を達成するための軍隊とはいえなくなっていたと批判されているが、戊辰戦争当時の奥羽越列藩同盟にも同じ批判が当たっているようで、誤りは結構繰り返すものである。
(旧盛岡藩士桑田元理事長)
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