2005年 12月 1日 (木) 

       

■ 〈オークランドの旅人〜賢治と滝沢村〉最終回 岡澤敏男

 ■さらばオークランド
  病臥(びょうが)生活を余儀なくされた最晩年の賢治は、文語詩という文学手段をもって、五体に内在するオークランドを再現しました。それが〔そのときに酒代つくると〕「悍馬(かんば)(一)」〔きみにならびて野にたてば〕〔かれ草の雪ちけたれば〕その他の詩編です。
  だが歩行詩としてのオークランドの旅は「国立公園候補地に関する意見」(大正14年5月11日)をもって終わったのです。

  この詩編は〔つめたい風はそらでふき〕(大正14年5月10日)「春谷暁臥」(大正14年5月11日)につづく作品で、中学生(盛岡中学5年)の森佐一(荘已池)を連れて岩手山ろくに野宿し一本木原を横断して溶岩流に達する1泊2日の旅路でした。

  それは花巻農学校の教師を辞めて「本当の百姓になる」という「異途への出発」を決意した陸中海岸の旅に通じるものでした。

  思えば(明治42年4月より)と題する短歌のなかの1首「鬼越の山の麓(ふもと)の谷川に瑪瑙(めのう)のかけらひろひ来たりぬ」がオークランド作品の端緒でした。この歌は中学1年のときの作品で、それから大正9年5月盛岡高等農林地質学部研究科を終了するまでの期間、短歌によってオークランドを旅しましたが、その後1年半ほどの中断を経て再開されたのが心象スケッチ『春と修羅』です。

  その大正11年の「岩手山」をはじめとする多彩なオークランドの旅の詩は大正13年・14年の「春と修羅第二集」にも6編足跡を残しています。

  これと並行して、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』の「狼(おいの)森と笊(ざる)森、盗(ぬすと)森」「烏の北斗七星」「水仙月の四日」「かしはばやしの夜」や「雪渡り」「やまなし」「土神ときつね」「気のいい火山弾」など多くの童話や、「初期短編綴」の「沼森」「柳沢」、そして劇「ポランの広場」にもオークランドの旅の足跡が鮮明に記されているのです。

  賢治が花巻農学校教師を辞職した大正15年以降の詩集「春と修羅第三集」にはオークランドの足跡をまったくみることはありません。

  しかし〔爺(じい)さんの眼はすかんぽのやうに赤い〕と「蕪(かぶ)を洗ふ」の2編のなかで、北上川の上流になお「まっ白な岩手山」をイメージさせていて、さらばした後の賢治の深層をいみじくものぞかせてくれます。

  盛岡中学受験の車中で初体験した「白い冠をかぶった岩手山」への崇敬と愛惜こそが、オークランドの旅の原点だったとつくづく思い知らされるのです。(完)

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