2005年 12月 1日 (木) 

       

■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉35 和井内和夫 戦争異聞3

 まず鳥羽伏見の戦い以後の東北の動向、そして楢山佐渡の動きと盛岡軍の秋田侵攻当時の情勢を整理すると次のようになる。
明治元年
1月18日 鳥羽伏見の戦いの情
  報盛岡に伝わる
3月8日 楢山藩兵200を率
  いて上洛。到着4月9日
3月14日 御五個条の御誓文発
  布
   23日 九条鎮撫(ちんぶ) 総督随伴兵を率い仙台入り
4月〜7月 白河城争奪戦、東
  軍(東北軍)大敗
5月3日 奥羽越列藩同盟結成
   18日 九条鎮撫総督仙台出
  発
6月3日 九条鎮撫総督随伴兵
  とともに盛岡入り
6月4日 楢山京都を出発。大
  阪から船で仙台経由帰国の途
  につく
   同日 目時隆之進(注1) 脱藩
   8日 中島源蔵(注2)大阪で自決。当時楢山は船待ちのため在阪
   15日 楢山仙台到着
   28日 九条鎮撫総督盛岡を
  出発秋田に向かう
7月3日 盛岡藩大評定
          (楢山不在)
   4日 久保田藩士仙台藩使
  者を暗殺
   6日 楢山仙台藩家老但木
  土佐と談合
上旬   東武皇帝(輪王寺宮)
  に拝謁か?
   16日 楢山盛岡帰着
   18日 仙台藩から秋田侵攻
  を督促さる
   19日 御前評定の結果秋田
  久保田藩攻撃を決定
   27日 盛岡藩秋田侵攻軍盛
  岡を出発
8月8日 楢山久保田藩に宣戦
  文を送る
   10日 盛岡軍鹿角で藩境を
  越え侵攻開始
8月27日 盛岡軍能代近郊二つ
  井付近に達する(最進出点)
9月12日 仙台・米沢両藩降伏
  の知らせ入る
   16日 盛岡軍藩境雪沢口で
  攻勢
   19日 藩境に近接する三哲
  山で激しい戦闘
   25日 盛岡藩西軍に降伏
    ◇   ◇
  こう時系列に並べてみると、慌ただしい当時の状況が浮かんでくる。  
  ◇   ◇
  【注1】目時隆之進
  楢山が藩兵を率いて上洛した当時の職位は用人で楢山を補佐する立場にあった。京都滞在中の見聞から徳川幕府の将来に見切りをつけていたと推察される。

  盛岡から楢山に対して出された帰国命令への対応について、新政府太政官から命ぜられた中京取締役を放棄しての帰国は、盛岡藩が反新政府=反薩長の立場を明らかにすることになるとして、帰国を急ぐ楢山を説得しようとしたが果たせず、脱藩して長州藩邸に駆け込んだ。

  戊辰戦争末期、九条鎮撫総督以下の東北派遣軍を助けるために編成された東北遊撃軍将府に随従して東北に戻り、戦後新政府鎮撫使沢主水の指示で脱藩の罪は不問とされ盛岡藩の家老に就任した。

  後になって、盛岡藩に対する新政府の処分が重いことの責任を問われ職を解かれた。その処置の根底にあったのは家老に昇進したことに対する周囲の妬(ねた)みといわれている。

  東京から召還される途中黒沢尻の宿で切腹した。その際宿の土蔵の白壁に「報国」と血書している。この報国の「国」は盛岡藩のことであるのは論をまたない。

  【注2】中島源蔵
  目付として楢山に従っていたが、目時と同様楢山の帰国には反対であった。帰国の船に乗るため楢山とともに大阪まで下ったが、楢山と同宿の一室で切腹した。いわゆる諫死(かんし)である。その際行灯(あんどん)に「奸臣殺忠臣」と血書している。この「奸臣(かんしん)」とは楢山を指すものと理解する人が多いがそう簡単ではない。

  なぜならば、この時期九条鎮撫総督は盛岡に滞在中であり、藩論が決まっていたわけではないし、当時京都に在った者たちには、彼らが上洛後に結成された奥羽越列藩同盟の動向はほとんど分からなかったはずであるからである。

  またこの「忠臣」の意味が、中島が自分自身のことを指していたというのも気になる点である。
  ただし、楢山がこの時期すでに薩長との武力対決を決意していて、それを目時・中島らに察知されていたとすれば別である。

  私は目時・中島らは盛岡藩内では以前から勤皇派(薩長派)と目されていたので、楢山の方から相談したり意見を求めた可能性はないと思うが、目時はそれ以前から長州藩関係者と接触があったと想像されるので、その筋から何らかの情報を得て、中島とともに楢山の本意をただしたり意見を具申した可能性はある。(旧盛岡藩士桑田元理事長)


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