2005年 12月 2日 (金) 

       

■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉36 和井内和夫 戦争異聞4

 前年10月には徳川慶喜が政治権力を朝廷(実際は薩長両藩)に返還し、続いて王政復古の号令が発せられ、そして楢山が上洛(じょうらく)した明治元年3月は鳥羽伏見の戦いの後であり、当時権力闘争の中心地であった京都に正味50日以上も滞在した楢山には、中央政治の状況や国内の大勢、つまり西国藩の動向・朝廷の動き・各藩の軍備状況・第2次征長戦争における惨敗によって露呈した幕府や佐幕藩側の戦力・京都の世論・大阪経済界の西国藩支持の雰囲気などを知ることができたはずでありそれらを分析すれば国内の政治的・軍事的大勢は薩長側に傾いていることが分かったはずだ。

  盛岡藩南部家の安泰を図るためには薩長側についた方がその可能性が高いと判断するのが当然であるのに、なぜ終始強硬に反薩長に固執したのであろう。

  その決心が中途半端なものでなかったことは、盛岡への帰路大阪であった中島源蔵の諫死(かんし)によっても全く動かされた気配がないことでも分かる。

  京都滞在中、薩摩屋敷を訪ね西郷隆盛に会いその態度様子に幻滅したとか、権謀公卿(くぎょう)岩倉具視(注3)と会った際、巧妙に薩長への対抗を教唆されたとかといわれているが、証拠が残っているわけでも、目撃した人がいるわけではなく真相は不明である。
    ◇   ◇
  【注3】岩倉具視
  薩摩の西郷・大久保、長州の木戸と並んで戊辰政変の中心人物の一人で、権謀家として歴史に残る。

  その岩倉が楢山に対し、東北諸藩を糾合して薩長に対抗するよう教唆したという説は昔からあったようである。明治になって書かれた長州の記録でも、わざわざそのことを否定しているところをみると、当時も人の口に上ったことが想像できる。

  盛岡でそれがとくに強調されるようになったのは、戊辰戦争後100年に当たる昭和43年ころからである。

  その当時戊辰戦争100年を記念して、地方紙や中央紙の東北版や岩手版で戊辰戦争が取り上げられているが、たいていの記事がそのことに触れている。

  楢山が浅慮・独断で事を決めたのではないということの裏づけの一つとして、そうであるべきはずだという、楢山を敬仰するあまりの希望的見方ではないかと思われる。

  もし秋田侵攻を決めた楢山主導の7月19日の御前評定で、楢山がそう明言したとすれば、出席者の口から表に出るはずである。

  楢山は京都の帰り6月中旬から7月にかけて仙台に滞在しており、その間に仙台藩佐幕派のトップである家老但木土佐と何度か会っているが、その際そのことを洩(も)らしたという説もある。

  しかし考えてみると、岩倉が言ったのが本当であれば、その内容は奥羽越諸藩の団結や士気にとって大いにプラスになることであるので、積極的に喧伝(けんでん)すべきことであり、秘匿されたままということはあり得ないと思われるし、また何らかの記録が残っていてもいいはずである。それが一切ないところをみると、やはり岩手県人の楢山に対する“思い”がなせるものであろう。

  権謀家岩倉の存在によって、いかにも“ありそうな話”になっているところがこの話の“妙”である。
  岩倉が楢山に対し薩長への対抗を教唆したのが事実で、楢山がそれに対応して動いた、そう考えたがる岩手県人の気持ちであるが、そのことは決して楢山の評価を高めることにはならない。いわゆる贔屓(ひいき)の引き倒しである。

  最高権力者の“暗黙の支持”で動いたということに、楢山の判断の妥当性を求めようとするのは、岩手県人の心の底に潜む事大主義・権威主義の現れではないだろうか。
(旧盛岡藩士桑田元理事長)



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