2005年 12月 3日 (土) 

       

■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉37 和井内和夫 戦争異聞5

 西郷は江戸城無血開城という大仕事をやり遂げて意気軒昂(けんこう)という状態であったであろうから、後進地域(西郷など西国人から見て)である東北の田舎大名の家老などには、つい応接に配慮を欠いた可能性はあるが、楢山は筋と道理を重んじ、その性格は沈着果断と伝えられているので、そんな瑣末(さまつ)な感情的なことで判断が左右されたとは思われない。

  また、岩倉具視は後世の史家に言わせれば典型的権謀家として定評があるが、そればかりではなく、相手によって態度言動を使い分けるのは、武力を持たない朝廷や公卿(くぎょう)が、武力を背景にした武家勢力に対抗する処世術=オポチュニズムとして、歴史上再三繰り返してきたことなので、いかにも“さもありなん”とは思われるが、武家勢力を分裂対立させる目的で策を弄(ろう)するとすれば、当時の岩倉の周辺には、楢山以外にもっと適当な人物がいくらもいたわけで、これも怪しい話である。
  どちらにしろ証拠や裏付ける記録は残っていないので、想像の域を出るものではない。

  しかし、楢山は徳川幕府に特別の恩義を感じていたとは思われないこと、また上洛(じょうらく)以前は薩長など西国勢に対して特に先入観や反感を抱いていたとも思われないことから、楢山が約50日間の京都滞在で強硬な反薩長論に凝り固まったのは、何か特別の理由があったと考えるのが自然であろう。

  考えられる理由の一つは、薩長の指導者たちの人間性に対する楢山の評価である。鳥羽伏見の戦勝で有頂天になり奢(おご)り高ぶった薩長の実力者たちの、露骨な権力指向や私利私欲丸出しの本音の言動や、成り上がり者らしい粗暴・放埒(ほうらつ)な態度・行動を見て、こんな連中に国や政治を勝手にさせてはならないと見切ったためではないかということである。

  当時の彼らは、公金や先物買い(将来の権力者と)をした大阪商人からの献金、あるいは相手かまわず巻き上げた御用金などを使い、芸妓(げいぎ)・娼妓(しょうぎ)を侍(はべ)らした遊興の席で国家経世を論じていたと伝えられているからである。

  もう一つの理由であるが、私はこちらの方を重視すべきであると考えている。楢山は盛岡藩南部家に連なる名門であり高知の上級武士である。その楢山が京都で目にし耳にしたことは前に書いたとおりであるが、その中でもとくにショックを受けたであろうことは、薩摩藩の西郷や大久保あるいは長州藩の木戸など、楢山の考えでは、それまで政治の表面に出ることなどは全く考えられなかった下級武士たちが、それぞれ藩主直結で藩政を動かしており、またそればかりではなく、藩の代表として当時〓雲の上〓の表現が当てはまる高貴な地位にあった三条や岩倉などの公卿と対等に付き合っているのを見て、これはまさに下克上であり、このままの状態が続けば、現秩序である幕藩知行体制と門閥身分制度の崩壊は避けられないと考えたであろうことは容易に想像できる。

  楢山としては、これは進歩とか改革とかではなく、驚天動地の革命だと考えたとしても不思議はない。しかも、楢山が上洛する前に、そのことを裏打ちするかのような「広く会議を興し万機公論に決すべし」の「五個条の御誓文」が発せられているのである。

  そうなっては、封建体制下において武士階級に保証されている、世襲の身分・知行など既得権の喪失は避けられないと考え、座してそれを待つよりはと、東北諸藩の同志を糾合して、旧体制を維持継承する東北地方政府樹立の道を選んだのではないかと想像するのである。
(旧盛岡藩士桑田元理事長)


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