2005年 12月 4日 (日) 

       

■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉38 和井内和夫 戦争異聞6

 さらに考えられることは、身分や知行を失うという直接の利害ばかりではなく、楢山にとって政治とは、固定した世襲の身分を前提に、選ばれた者たちに当てがわれた職位職権によって行うものであり、それが強烈な自負心とエリート意識(注4)によって裏打ちされていたと思われ、楢山としては、門閥高知の武士としての矜持を維持するためには、それ以外には方法は考えられなかったと思うのである。

  そう考えれば、大阪出発前、用人目時隆之進との間の、新権力薩長藩閥に対する評価や、盛岡藩の向背に関する激論と、その直後の目時隆之進の脱藩、そして中島源蔵の死をもっての諫言(かんげん)にも動かされなかったわけが分かるのである。

  そしてまた、京都の帰り仙台に立ち寄った際であるが、この時点では九条鎮撫総督はまだ盛岡滞在中であることは分かっていたはずであるのに、なぜか帰国を急がず側近の者数名とともにその後20日間以上も滞在したことや(注5)、旧守派であり仙台藩と言うよりは東北諸藩の中でも最も強硬な反薩長論者であったと言われる仙台藩家老但木土佐と一度ならず話し合っていることの意味が想像できるのである。

  わたしは敗戦後の楢山の潔い態度言動などから、この当時の楢山の心の中に、誇りある武士階級の滅びを予感したものがあったのではないかと考えている。

  ただし、楢山の終始毅然とした姿勢態度は伝えられるとおりであろうが、盛岡軍が秋田久保田領侵攻に際し、楢山が久保田藩国境警備の守将茂木某に送った宣戦文で、その末尾に「今回の久保田藩に対する攻撃は、仙台・米沢両藩の要請による」という意味のことが書かれているのは、楢山らしからぬ主体性のなさで、わたしとすればこの点だけはどうもすっきりしないのである。

  それに関係があるかどうかは分からないが、秋田側には、盛岡藩と秋田久保田藩とは前もって話がついていて、盛岡藩の宣戦通告は、戦争参加をせかせる仙台藩向けの八百長で、戦争になっても撃ってくるのは空砲のはずだったのに、いきなり実弾が飛んできて、盛岡藩にしてやられたという言い伝えが残っている。

  盛岡藩が明治政変に逆らい時流に乗り損なったことをもって、目時・中島を是とし、楢山を非とする後世の議論では、楢山が目時や中島に比して情報不足であり、先見力がなかったことを前提にしているが、教育もあり歳こそ若いが多くの職位を経験し、しかも南部家第38代利済の失政による嘉永百姓一揆後の混乱の収拾にも携わり、また年貢に依存する藩財政の窮迫ぶりや、それにかかわる藩士たちのモラルの低下などを熟知していた楢山が、その点に関し目時・中島の両人に比して劣っていたとは考え難いのである。

  ただし、薩長両藩にあって、楢山あるいは盛岡藩に限らず東北諸藩に欠けていたものは確かにあった。それは外国軍と戦った経験である。

     ◇   ◇

  【注4】楢山のエリート意識

  楢山の人間像としては毅然とした出処進退と折り目正しい挙止が伝えられている。またその素直・清冽な人柄は、敗戦後の東京幽囚中に作った詩によく現れている。

  それらを築き上げ支えていたものはなんであろう。わたしは生まれながらにして持った資質だけではなく「嫡子になった庶子の自覚」ではないかと考えている。楢山は父五郎左衛門隆翼の正妻から生まれた嫡男ではなかった。

  その意識が人一倍節度ある生き方、「らしくあれ」ということを肝に命じていたのではないだろうか。

  またその意識は時として権威主義・事大主義に陥りがちであり、後々指摘された楢山の専断的傾向はその現れとも考えられる。

  庶子の佐渡がなぜ楢山家の跡継ぎになったかであるが、その他にも事情があったと思われるが、幼少から殿のお相手として城勤めをしていることも関係あるのではないかと考えている。

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