■ 〈野村胡堂の父からの手紙〉36 八重嶋勲 略式の儀には候えども
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■59 はがき 明治34年10月30日付
宛 盛岡市内日影門外小路南部小枝方
止宿
発 紫波郡彦部村
前畧旧九月廿九日頃ハ是非二三日帰宅ヲ要スル次第尤モ日時他日スル場合ハ出立月日豫定日数方面等一報可致候、右用事迄早々
十月三十一日 野村長四郎
【解説】「前略旧9月29日(新暦11月9日土曜日)頃はぜひ2、3日帰宅を要する。とはいうものの日時を別の日に変える場合は、出発の予定日、日数、どちらに行くのか等知らせよ。右用事まで。早々」という内容。
結婚式を新暦11月9日土曜日ごろに予定している父長四郎の焦り。どこかに旅行に出かけ何とかこの結婚式を逃れようとしている長一の気持ちが表われているはがきである。
■60 巻紙 明治34年11月3日付け
宛 盛岡市内日影門外小路南部小枝方
止宿
発 紫波郡彦部村
生姜町又ハ他ニテ宜来ル廿七日迄出来 候様(カマボコ(底辺)六寸位)一本七八 十銭位ニ注文可致置候、次に紺屋町西 側ニ有之筈頓テ壱人前宛ニ拵シラヘタ カマボコ五十人前注文可致置候
前略当月分授業料金壱円送付候、受領可致候、
豫而約定致置候如ク来ル旧廿九日婚姻式挙行致度候、尤略式儀ニハ候得共数人揃往復スル事ハ所ノ習慣トシテ不止得次第ニ有之候、其以前旧廿七日頃諸事品物買物ノ為メ出朝(盛)致心組ニ候得共何分準備ニ閙敷(さわがしく)候ニ付一日モ早ク帰宅可致候、旧晦日頃○川○八様ヲ招待スル事ハ尤親友トシテ宣敷事ニ有之候、唯タ余リ田舎ノ風ナル故少シク赤面スル哉モ難斗候得共所習慣ナルヲ以テ不止得事ニ候、余ハ面會ト申残ス早々
十一月三日 野村長四郎
野村長一殿
【解説】「生姜町またはほかでもよいが、来る27日まで出来るようにカマボコ(底辺で6寸位=18センチ位)1本7、80銭位を注文して置くこと。次に紺屋町西側にあるはずだが、にわかであるが、一人前宛てにこしらえたカマボコ50人前注文して置くこと。
前略当月分授業料1円送付、受領するように。かねて約束していたように来る旧29日に婚姻式を挙行する。もっとも略式でやりたいが、数人そろって往復する事は所の習慣としてやむを得ないことである。その前旧27日頃いろいろな品物を買うため盛岡へ出るつもりであるが、準備にさわがしいので1日も早く帰宅するように。旧晦日頃(29日か)○川○八様を招待するのは親友であるからよろしいが、ただ田舎風なのですこしばかり赤面するかもしれないが、所の習慣なのでやむを得ないことである。余は面会に申し残す。早々」という内容。
11月9日の結婚式を約1カ月後に控え、父の忙しくうきうきした心境が伝わる書簡である。それにしても父は、長一の気持ちを十分理解していない。結婚式さえ終えればどうにかうまくいくだろうと考えていたのかもしれない。
一方、長一は、親同士が決めたこの結婚式はどうしても気が進まない。といって、橋本ハナに対する思いはまだ淡く、そのことを父に言い出せる状態ではなかったのではなかろうか。
書簡中「もっとも略式でやりたいが、数人そろって往復する事は所の習慣としてやむを得ないこと」というところがあるが、当地方では、結婚式当日午前中に、仲人、両親(おもらい様)、新郎(婿)、本家、親せき代表(婿添い・荷物背負い)の8人ほどが、紋付袴(もんつきはかま)の正装で打ちそろい、まず最初に新婦の家に赴き、「娘さんをいただきに参りました」と口上を述べ、新婦側の祝宴がひとしきり行われ、午後新婦側の一行8人ほどが新婦を伴い、新郎側と一緒になって行列を組んで新郎の家に向かう。
途中、村人の祝いを何カ所かで受けたりして新郎の家に到着。三々九度の杯などの儀式を行った後に、盛大に花嫁披露の祝宴が始まる。宴会は深夜にまで及んだ。
この習慣は、昭和40年代まで続きわたしも経験した。今は、新郎新婦側合同の結婚式、披露宴が行われるのが普通である。父長四郎が「略式でやりたいが」といっているのはきっと「合同結婚式」の形ではなかったのではないだろうか。
あれから「合同結婚式方式」になるまで70年ほどの年月がかかったことになる。 |
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