2005年 12月 6日 (火) 

       

■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉39 和井内和夫 戦争異聞7

 薩長両藩が経験した、自藩領内である鹿児島湾と馬関における外国艦隊との本格的戦争である。それが薩長両藩関係者の現実認識に決定的影響を与えたのである。具体的には、ヨーロッパやアジアの国際情勢・ヨーロッパ諸国の後進国侵略競争の実態・近代戦の実相・外国軍の戦力などである。

  その点になると、自藩領外の蝦夷(えぞ)警備でのロシアとの小競り合いの経験しかない東北諸藩とは大違いである。

  東と西あるいは藩を問わず、情報量の差をいうならば、これが決定的であろう。それが薩長両藩の若い指導者たちに、新しい国家観を確立させ、また幕藩封建体制の弱点に気づかせたことは確かである。

  その意味からすれば、楢山に限らず東北諸藩の指導者たちの当時の世界情勢や欧米列強の動きに関する情報不足、そして政治や兵制の近代化に対する研究不足と先見力のなさは批判されてもやむを得ないであろう。
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  【注5】仙台滞在の謎
  楢山が京都からの帰国の途次仙台に着いたのは6月15日である。この時点では九条鎮撫(ちんぶ)総督は盛岡滞在中であったことは前に書いたとおりである。

  九条鎮撫総督には公家参謀である醍醐忠敬のほか、佐賀藩出身の有能な武家参謀前山清一郎も随行していた。そして総督府を取り仕切っていたのは前山であったことは間違いないであろう。

  前山は6月3日の盛岡到着以来の折衝から盛岡藩頼りにならずと判断し、秋田・弘前方面への転陣を考え、協議のため6月5日に弘前に赴き、盛岡に戻ったのはくしくも楢山が仙台入りした6月15日である。またこの日は輪王寺宮が東北政権を樹立し東武皇帝に就いた日であることも意味深である。
  九条鎮撫総督が盛岡を出発したのは6月24日であるので、楢山にその気があれば、6月15日の仙台到着後すぐに盛岡に急行すれば会うことはできたはずであり、あるいは自分が帰国するまで出発を待ってもらうよう急使を送ることもできたはずである。

  また盛岡藩首脳部の動きにも理解し難い面がある。九条鎮撫総督が盛岡を離れるということは、事実上盛岡藩が奥羽越列藩同盟側につくことを明らかにすることになるわけだが、その決定には楢山の持ち帰る情報と意見は貴重な判断材料になるはずであり、しかも楢山の帰国は藩が命令したものであることを考えれば、なぜ楢山が帰国するまで九条鎮撫総督を引き止めておかなかったかの疑問である。

  一方九条鎮撫総督の方(実際の決定者は前山参謀である)であるが、最も重要な交渉相手である楢山が仙台まで戻ってきていることが分かっていたにもかかわらず、こちらも何の手も打っていないのは何か理由があったとしか考えられない。しかも前山が弘前から戻った6月15日の時点では、盛岡藩の方針は勤皇方に傾いていたのにである。

  楢山も前山もお互い会っても無駄だと考えていたとしたら、その根拠は一体なんであろう。歴史に「もし」はないといわれるが大きな疑問である。

  前山は後になって盛岡藩の降伏謝罪状を受け付ける立場になった。事務的な応接に終始しているようであるが、盛岡藩に対する心証はどのようなものであったか興味深い。(旧盛岡藩士桑田元理事長)


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